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祭でよく見る三番叟って?
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祭でよく見る三番叟って?

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3月の乙川祭を皮切りに、半田市内で春の祭礼が行われています。山車を伴う祭礼では、神社などで人形による三番叟や、上半田では小さな男の子による三番叟が奉納されます。

目次

三番叟とは

三番叟の起源は、平安時代頃まで遡ります。

古くからあった老人の面を付けた神が踊り語り祝福を与える神聖な芸能を「猿能楽」として留めたものを「式三番」といいます。

式三番とは

鎌倉時代頃に成立した「猿能楽」は、平安時代頃までの呪師の芸を継承したものと言われています。
もともとは五穀豊穣を祈り、農村行事として行われていたもの

「式三番」の登場人物

1.千歳(若者の象徴)
2.翁(集落の長の象徴)
3.三番叟(農民の象徴)

これが三番叟の元なんです。三番叟の衣装を見ていると神官のような衣装なので、農民の象徴と言われると少し不思議ですよね。

式三番の流れ

1.千歳が露払いの役を担って舞う
2.翁が天下泰平を祈って舞う
3.三番叟が五穀豊穣を祈って舞う(足拍子で地固めを思わせたり、種まきを思わせたりする所作をする)

五穀豊穣を願う相手は土地の神様。現代でも家を建てる時に地鎮祭を行いますがその時は神社から神官がきてくれます。そう思うと神官の衣装なのも納得できます。

なぜ「式三番」というの?

「式三番」という名称は、
“例式の3番の演目”という意味で、
「父尉」(後世に省略された)、「翁」、「三番猿楽」の 3演目を指すものです。
三番猿楽がその後「三番叟」になったと思われます。

なぜ「式三番」から三番叟が山車祭礼に?

式三番はとにかくおめでたい舞い

後世になり、式三番の中から、能では翁の舞を主に取り入れたり、歌舞伎では三番叟の舞を主に取り入れて正月の講演で上演されるようになりました。その演者は身を清めなければならないほど、かつてより神聖な舞いだったということが伝えられています。

「式三番」の画像検索結果

「式三番」は猿能楽から「能」へ発展し、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃、民俗芸能へ派生しました。

全国の祭礼で山車人形が使用されるようになったのは平安時代と言われますが、
岩滑八幡社の祭礼で嘉永五年(1852)の記録でも三番叟が行われていた記録があるなど、
詳細な記録はないものの、半田市内でも三番叟が江戸時代末期に行われていたことが確認できます。

ではなぜ、民俗芸能のひとつとして、式三番の中の「三番叟」が、五穀豊穣を願う春の祭に取り入れられ、神社への奉納というおめでたい場で舞われるようになったのでしょうか?

考えられる要素としては、

・戦国時代が終わって安定した政権下で、民俗芸能が発展した

・山車文化の発達

・江戸時代に陸運や海運が発達した、組織制度が画一的になったことで情報交換が多くなった(信仰や芸能の情報が全国で広まった)

・古くからの農耕文化(五穀豊穣を願う)

などの、さまざまな要素が結びついて、今のような三番叟が伝わっていると考えられます。

上半田の子供三番叟

上半田の住吉神社の祭礼「ちんとろ祭」では、社前の宮池で2艘の「ちんとろ船(まきわら船)」が浮かべられます。

その祭礼行事の中で、船の上の前部で、子どもによる三番叟が舞われます

ちなみに、「ちんとろ船」の“ちんとろ”というのは、船の囃子がこのように聞こえることからそう呼ばれると言います。

上半田のちんとろ船は、北組「住吉丸」、南組「入宮丸」と呼ばれます。
愛知県津島市にある津島神社で夏に行われる天王祭の「まきわら船」を伝えたものといわれます。

「津島 天王祭」の画像検索結果

↑津島天王祭

1年の日をあらわす365個のちょうちんで半円形をつくり、頂点には1年の月をあらわす12個の提灯を連ねます。

津島神社から上半田への伝承時期は不明ですが、天王信仰とともに広まったものと考えられています。

天王信仰とは

天王信仰とは、疫病よけを中心とした牛頭天王 (ごずてんのう) に対する信仰です。

祇園信仰といえば京都の祇園祭。その起源は、疫病の流行により朝廷が平安時代の863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行ったことに遡ります。

「祇園祭」の画像検索結果

↑祇園祭

平安京八坂の祇園社では、近くに祀られていた仏教の守護神である牛頭天王と、御霊信仰 (ごりょうしんこう) と習合して疫病よけの信仰となり、その風習が全国にも知られるようになりました。

東海地方ではスサノオ・牛頭天王は「お天王さま」と呼ばれています。津島神社より勧請を受けた神社は、東海地方を中心に日本全国に約3千社あります。その多くはかつては「牛頭天王社」「天王社」といっていましたが、明治時代の神仏分離の際、総本社の津島牛頭天王社(津島天王社)が津島神社に改称したことから、同名の「津島神社」に改称しました。

半田市でも津島神社がいくつかありますが、愛称で「お天王さん」と呼ばれているところがあります。

ちなみに、住吉のちんとろ祭の元である津島天王祭では、江戸時代初期まで三番叟とは異なる稚児舞を行っていたようですが、現在では残っていません。そのため、上半田の子供三番叟の伝わった詳しい経緯は分かっていません。

子供三番叟はどんな舞?

住吉神社の祭礼で子供三番叟の舞をするのは、かつては3~5歳の男の子となっていましたが、昭和30年代からは小学校1年生に上がる前後の2年間、三番叟を演じることになっています。

舞台用の豪華な衣装の費用はかつては親の自前で100万円ともいわれる費用で用意されたといいますが、今では組で準備しています。

2019年も夜、ちんとろ祭の宵宮で子供三番叟が奉納されました。

真っ暗になった午後7時に、大人の肩に担がれた三番叟の子供は、住吉神社で拝殿にあがり祈祷したあと、宮池に浮かんだ船に乗ります。

そして船を岸につけて、北組、南組の順で舞います。2組の三番叟には大きな違いがあります。

北組が男三番叟で力強い舞

南組が女三番叟で優しい舞。

両組の違いは、化粧(きつい/すっきり)や、烏帽子(太陽/月)にも表れています。

どちらもとてもかわいらしく、見ている方は口々に「かわいいねえ」と漏らしていました。

南組の男の子は、4月13日に5歳のお誕生日を迎えたということで、なんとも御目出度い三番叟となりました。観客皆でハッピーバースデーを歌いました。これまたほっこり。

岸辺に桜の咲く宮池に提灯が反射して、のんびりと行きかう様子もまた風流です。

三番叟山車人形

さて、人間が三番叟を踊るのは半田市では上半田のみ。他は山車で人形の三番叟を奉納します。

半田市内の山車が曳かれる祭礼では、「宮本が三番叟を奉納する」と言われます。

宮本(みやもと)とは、神社のおひざ元、神社の神様を警固する山車の、リーダーといったところでしょうか。奉納や並び順でも順番でも1番というようになります。

人形遣いの三番叟を行うのはほとんどが宮本の車で、半田市内では現在11輌の山車において三番叟が演じられています

おもしろいのでまた別の機会に紹介したいと思いますが、詳細に分けると、人形の扱い方は2系統あり、伝播の順番も追うことができます。


山車の正面に突き出た前壇(まえだん、前棚壇箱とも)で、三番叟を操ります。

▽本板山・三番叟

人形三番叟には「アカンベ」と舌を出すものがあり、これは歌舞伎の「舌出し三番叟」や、名古屋城下で人気だったアカンベをするからくりの影響を受けているといわれます。

とってもかわいいです。

舌出し三番叟とは

「舌出し三番叟」は、大坂の役者・三代目中村歌右衛門が、江戸での興行を終えて大阪へ帰る際の御名残狂言として初演されました。

元をたどれば、歌舞伎創生期に初代中村勘三郎が演じた三番叟を復興したものを伝えられたといいます。舌出しの所作は大好評を博し、劇場は朝から人で溢れたと言います。

これを真似した人形の三番叟があるのは、民衆からも人気があったという背景が考えられます。お茶目な感じがかわいらしくて、人々が喜ぶこと間違いないですから。

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三番叟は、踊りとともに囃子や掛け声もおもしろいところです。

昔の言葉で、難しそうなことを言っているように聞こえますが、よく聞いているととても簡単な言葉で、民衆に分かりやすい言葉で伝えられているのだと思います。

一番三番叟にとって特徴を表している「めでたい」「めでたき」という単語が聴こえてきたりしますので、耳を澄ませて歌も聞いてみてくださいね。

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