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【亀崎潮干祭】祭の発祥とからくり人形
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【亀崎潮干祭】祭の発祥とからくり人形

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2019年5月3日、4日、亀崎の神前神社(県社:けんしゃ)の祭礼「亀崎潮干祭」が行われました。

潮干祭は海に山車をひきいれるシーンが有名で県外からも多くの見物人が集まります。2016年 には「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産へ33件の1つとして登録されました。

目次

潮干祭の発祥

潮干祭という呼び方は新しく、古くは祭、亀崎祭と呼ばれていました。いい伝えによれば、応仁・文明(15世紀後半)の頃、この地に来着の武士達が神社付近(寺山)に移住し、人口が増えてきて、祭を行おうということになり、神官の指図により荷車のような台車に笹竹を立て、神社神紋の幕を張り、囃子を入れ町内を曳き㢠わしたのが起源とされます。
その後、町の発展に伴ない現在の如く東組、石橋組、中切組、田中組、西組の五組による山車祭礼の形態が出来あがったといわれます。

海岸段丘、段丘崖のある亀崎。山があってすぐ海のある珍しい地形なので、坂が多く、人が住む場所としては小さなエリア。しかし江戸時代からの海運 商業の発展で人口や財力に富み、商家が肩狭く並ぶ通りもありながら、立派な家も時々目に留まるような街並。その財力と伝統文化が山車の豪華さに表れています。

なぜ海浜に曳下ろすの?

ところで潮干祭では、なぜ海に山車を曳き込むのでしょうか?

江戸時代の終わり頃の様子を描いた『尾張名所図会 小治田之真清水』にも、亀崎祭礼は海へ山車をひき入れている様子が描かれています。

▲『尾張名所図会 小治田之真清水』はWEB公開されていて、誰でも見ることができます

神前神社の祭神が神倭磐余彦命(神武天皇)であるところから神武東征のときに、亀崎の「州の岬」から上陸されたのにちなんで山車を海へ下ろしたのだという説があります。

亀崎は海の街だからなるほど、という感じなのですが、神武東征がさかんに言われ出したのは明治以降なので、江戸時代には既に海浜へ下していたこととの関連性はわからないのです。
ただ、海運や漁業で町が発展して勢いのある時期に、こうした伝説めいたハクがついて、地域の人々がそれを受け入れていくのもある意味の文化。人々にとっての真実になって、今もそれが伝えられているということが面白いところです。

からくり

海浜曳下ろしとともに人気な見せ場が、からくり人形の奉納です。各山車の前棚と上山(うわやま)にからくり人形を出して、隠れ遣いで操作します。

前棚人形

山車の前面にせり出した舞台上の棚、前棚に人形を出し、幕の後ろから人形を操作します。

東組宮本車・前棚人形「三番叟」

「半田の祭は宮本が三番叟を奉納する」という風習が古くからあります。(詳しくはこちらで紹介しています。)亀崎も宮本車が三番叟を奉納します。

中切組 力神車・前棚人形「猩々の舞」

人形の製作は安政年間(1854-59)。振り返ると猩々(しょうじょう)の面をつけていたり、外していたりするところが見所です。猩々とは、猿に似た前身の赤い伝説の生き物です。「猩々の舞」は能楽の1つで、真っ赤な能装束で飾った猩々が、酒に浮かれながら舞い謡います。

振り返り、戻るといつの間にか猩々のお面をかぶっています。

石橋組青龍車・前棚人形「布ざらし」

越後の国(新潟県)の角兵衛獅子を題材にした舞踊「越後獅子」の一コマを演じます。

舞踊衣装を着た女性の人形はたすき掛け、頭に手ぬぐいを姉さんかぶりで、布ざらしをします。

「越後獅子」は文化8年(1811)3月に作曲され、大好評を得た舞踊音楽。当時流行していたこの舞踏音楽をからくり人形に取り入れられたと考えられます。

この人形の動作は、回転、左右、両手の上下回転、首の上下左右、胴曲げ、胴のそり、両足の上下、布おとし等があり、操り糸は15本、操者は5人。

囃子方としては人形の操者によって歌われるのみで、三味線や笛は使いません。

人形は弘化2年(1845)の箱書きがあるがそれ以前の作と言われます。

<歌詞>

ここはたまがわ いでのさと

さらしさらすの お目見えは

我が身ながらも 恥ずかしや

見渡せば 見渡せば 西も東も花のかお 花のかお

いずれも賑おう 人の山 人の山

打ち寄する 打ち寄す 女波 男波の絶え間なく

逆巻く水の 面白や 面白や

さらす細布 手にくるくると

さらす細布 手にくるくると

いざやかえらん おもでたや

田中組 神楽車・前棚人形「巫女の舞」

巫女が鈴を持って舞います。

西組 花王車・前棚人形「神官」

神官が舞います。人形は天保年間の作。西組は初日(前の日)のみ神官、後の日は別の人形が登場します。

西組 花王車・前棚人形「石橋」

西組は、後の日(2日目)は前棚人形が変わります。

「石橋(しゃっきょう)」は能で、祝言の色合いをもった舞いです。

両手に牡丹を持った獅子が、石橋の向こうから現れるように舞います。

<「石橋(しゃっきょう)」のあらすじ>

中国・インドの仏跡を巡る旅を続ける寂昭法師は、中国の清涼山にある石橋付近に着きます。

そこにひとりの樵の少年が現れ、寂昭法師と言葉を交わし、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であること、この橋は狭く長く、深い谷に掛かり、人の容易に渡れるものではないこと(仏道修行の困難)などを教えます。

そして、ここで待てば奇瑞を見るだろうと告げ、姿を消します。

寂昭法師が待っていると、やがて、橋の向こうから文殊の使いである獅子が現われます。

香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れ、獅子舞を舞ったのち、もとの獅子の座、すなわち文殊菩薩の乗り物に戻ります。

上山人形

東組宮本車・上山人形「御湯取神事」

禰宜と舞姫による湯取神事です。今でも奈良の「おんまつり」では湯取(湯立)神事が行われていて、とても古い時代から行われている神事と考えられます。

湯取神事とは、神前で大釜に湯を沸かし、巫女や神職が笹や榊の葉を釜の湯に浸し、湯を振り掛けることによって祓うものです。

禰宜と舞姫の人形は天保年間の作。最後に釜の中から湯に見せかけた花吹雪が舞います。

石橋組青龍車・上山人形「唐子遊び」

人形は3体あり、天保12年(1841)4月の箱書きがありますが、文化文政期のものと考えられています。昭和48年、青年を中心とした組員一同の努力により復元されました。

唐子人形はサーカスのような動きをします。中央の人形は途中から逆立ちをして金をたたきます。(この日はちょっと調子が悪かった…)

中切組 力神車・上山人形「浦島太郎」

亀に乗った浦島太郎と、乙姫が出てきて、昔話の通り乙姫からもらった箱を開けてしまうと煙が出て、おじいさんになってしまった浦島太郎。

腰をトントンと叩くしぐさがおじいさんらしいです。

冒頭にタコやフグやヒラメが出てくるところが、子どもが見てもわかりやすくて、かわいらしいです。

田中組 神楽車・上山人形「傀儡師」

田中組の上山人形 傀儡師は、人形遣いが人形を操る二重構造です。

傀儡師(かいらいし)とは、江戸時代の大道芸人で、諸国をまわり、街頭で子供たちを集めて、首にかけた箱に手を突っ込んで人形を動かします。 田中組の傀儡師が披露する演目は3つ。

1吉野山(唐子人形)

2舟弁慶(義経 弁慶 船頭)

3山猫いたち

3つの中で、最後の山猫いたちは、観客に山猫が飛び出すところが面白いところ。

……………………

「山猫いたち」歌詞

子供衆 子供衆

悪い事せまいぞやー

悪い事をしたものは

山猫にかましよ

けものにかましよ

スッペラポンノポン

……………………

江戸時代に、子供たちを集めて傀儡師が人形遣いを披露していた街角で、子供たちが湧く様子が目に浮かびます。

調査によれば、田中組の上山人形の傀儡師は、1吉野山 3山猫いたち の言い回しなどから、江戸時代初期の傀儡師を正確に伝えているものと考えられています。

「舟弁慶」は、落ち武者の亡霊(平知盛)が海に現れ、船に乗った義経と弁慶が追い払うというストーリー。

落ち武者が槍を回転させるところや、小さな船頭が前後に体を揺らして一生懸命船をこぐ様子や、弁慶が数珠を手に持ち必死に念仏を唱える様子を見ると、ち密な人形の構造に驚きます。

西組花王車・上山人形「桜花唐子遊び」

2体の唐子が、桜につけられた空中ブランコを雲梯のように手足を使って渡っていきます。

からくりは、浜、秋葉社、尾張三社、神前神社などで奉納されます。

テレビのない江戸時代には、大道芸、芝居、祭のカラクリなどは民衆にとっての一大エンターテインメント。

しかし娯楽の多い今でもカラクリを楽しみに見ている方は多いように思います。ワッと盛り上がっていた様子を見受けました。

古い文化でも今も大衆の楽しみとして伝えられている、生きた文化。見たい人と、伝えようと思う人の双方の想いが一致しなければきっとここまで長く続かないので、凄いことだなと思うのです。

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