廃藩置県当初、半田は2分裂していた?!

廃藩置県当初、半田は2分裂していた?!

歴史の授業で「廃藩置県」(はいはんちけん)って、聞いたことがあると思います。 「なつかしい、でも・・・なんだったっけ?」と思う方も多いかも。 wikipediaによると、 廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 廃藩置県は...

室町時代のおじいさん?業葉神社の古面

室町時代のおじいさん?業葉神社の古面

2018年4月、半田市立博物館にて半田市の文化財指定を受けた「業葉神社の古面」が展示されました。室町時代の製作と推定されるとても貴重で古いお面。実際に展示を見に行ったので、紹介します。業葉神社に伝わり、業葉神社の前身の業葉天神、八幡神社という流れを変えたお面でもあります。

『古今半田衆』巻第一半田停車場前

『古今半田衆』巻第一半田停車場前

JR半田駅周辺の今と昔。 「なぜ半田が半田の中心になったのか?」を、茶々丸がお散歩しながら、解き明かしていきます。 ▼PC向け その1.ページの角をクリックすると、漫画のようにページをめくれます。 その2.PDF版 ▼クリックすると開きます ▼スマホ・タブレット向け ↓画像をクリックするとリンクページが開きます。縦スクロールして見てください。

亀崎潮干祭ゴマ掘り

亀崎潮干祭ゴマ掘り

2017年4月9日(日)午前中、亀崎の海浜で、山車(やまぐるま)の車輪(ゴマ)が掘り起こされました。   毎年、5月3・4日に開かれる亀崎潮干祭に向けた作業です。 初めて近くで見学させていただくことができたので、動画を撮影しました。画質が荒くてごめんなさい。 泥の下に埋められていたゴマ。潮干祭用には5組(いつくみ)×8つずつ保管されています。(他にも、夏山車用の小さなゴマも埋まって...

業葉神社と、関取が背負ってきた力石

業葉神社と、関取が背負ってきた力石

冷え込んで紅葉が美しい時期です。市内でも今年はわりと美しい紅葉が見られました。 だいぶ切られてしまっていますが、先日、イチョウの綺麗なこちらの神社を訪れましたので、散策気分でご覧いただければと思います。 1.業葉神社 半田運河沿い、酒の文化館のすぐ西側にある、業葉(なりは)神社。 ●業葉はナリハ 知らない人からすると、「業葉」を「ナリハ」と読むのは難しいでしょう。業は生業(なりわい)...

【半田の民家】黒壁、寄棟、ショウキさん

【半田の民家】黒壁、寄棟、ショウキさん

丹生谷 章氏による「中部地方の民家」(昭和43年)という著書に記録されている、今から50年ほど前の半田市の建物について記述があります。その内容が、今となってはレアな景色になりつつあるのでご紹介します。 1.黒く塗った板壁の家 尾張地域の中でも半田では、 「黒く塗った板壁の家が多いのが目にとまった」 とあります。 確かに、昭和生まれで知多半島で育った方ならば、黒壁の建物は昔から馴染みが...

7本の松があったから、七本木池?

7本の松があったから、七本木池?

半田市の乙川地区にある七本木池にまつわる伝説をご紹介します。 (google航空写真より) 江戸時代、七本木池ができる前に、この辺りに7つの輪中(のちの講中、組)で1本づつ持ち寄って松の木を植えました。 7つとは、 北、中、南、飯森(もとは飯盛)、平地、新居(もとは新井)、向山 の地区単位です。 飯森や新居などは今もよくわかる地名ですが、北、中、南はピンときません。 ...

今でも残るトロッコ線路跡

今でも残るトロッコ線路跡

今やインターネットで簡単に航空写真が見られるので、旅気分で眺めていると楽しくなるものですが、半田でも、時代旅行気分でぜひ眺めてもらいたいところがあります。 それは、半田赤レンガ建物とJR半田駅の間です。 じーっと見ていると... 今は道でも線路でもないのですが、なんだかラインが浮かび上がってきませんか? 半田赤レンガ建物では明治31(1898)年〜昭和18(1943)年の45年間、ビール...

初めて史料に見る半田は?

初めて史料に見る半田は?

日本の文字史料は、いまから1400年前くらいの飛鳥時代以降に増えていきましたが、いまの半田市の地名として、初めて史料に出てくるのは、“乙河”です。 今では「乙川」と表記する「おっかわ」です。 いまから730年ほど前の鎌倉時代 弘安年間に書かれた「源胤雅申状」に、“英比郷内本領乙河村”と書かれているのが、今のところ最初ということになっています。 ちなみに、英比 は、阿久比(あぐひ)を、...

明治まで亀を食べていました。

明治まで亀を食べていました。

今や工業地帯という印象が強い亀崎の「州の崎(すのさき)」。 あの辺りは、江戸時代には大きな海亀が泳ぐ海でした。 いくら大潮でも小山のような「州(す)」が残っていたから「すのさき」と言ったようです。 その小山があったから、亀が卵をうみつけやすくて、亀が集まったとか。 数え切れないほどの卵が、孵化すると一斉に小亀が這い出し、流れだし、見事な光景だったと伝えられています。 ...と、言...

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