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江戸時代から、半田港、亀崎港が、海運業で栄えてた、ということは何となく知ってる人は多いでしょう。
今も会社や蔵があるミツカンや国盛(中埜酒造)のイメージもあって、酒や酢が江戸に運ばれてたんだろうな~というのはすぐに頭に浮かびますよね!
でも、運ばれていたのは酒や酢だけではありません。
じゃあ、他に何が運ばれていたのか?
今ではイメージしにくいので、あまりフューチャーされることがないのですが、
それは「肥料」です。
「肥料」とは、畑の農作物に使うあの肥料です。
半田・亀崎の海運は、むしろ、全国的に見ると「肥料」が多く扱われていることが特徴でした。
肥料は、お金の要らない草木の灰や、コエダメから撒くものと、
お金を出して買う「金肥(きんぴ)」があります。
「金肥」は、今だとホームセンターで売ってるような肥料のことで、
白いつぶつぶの化学肥料とか、鶏ふんなどがあります。
江戸時代後半から明治時代の金肥の主流は、魚でした。
とくに、ニシン、イワシです。
▼イワシから作る“干鰯(ほしか)”
肥料の取引は、「千石船」と呼ばれる和船で海上運搬されていました。
千石船は、MIM(ミツカンミュージアム)に再現展示してある「弁財船(べざいせん)」のような大きな大きな船です。
半田港・亀崎港が金肥の集散地としてピークだったのが明治20~30年代。
その頃のモノの流れは、まず
肥料のモトとなる魚や大豆粕などを、
東京・兵庫・大阪・千葉・伊豆・静岡・横浜、 さらには北陸・東北・北海道、 その後は中国(外国の方の中国です) |
↓ から引き取ってきて、一旦、
半田港・亀崎港 |
↓ に集約してから、
東海地方の農地 |
に供給されていました。
東海地方の中でも、8割が三河、次いで知多半島が供給先となっていたそうです。
この、半田港・亀崎港に仕入れて、供給先へ売る仕事では、
仲買人がかなり大きな力をもっていたのですが、
肥料商として有名なお店といえば、
半田では、「萬三商店」(小栗三郎氏)
亀崎では、「井口商会」(井口半兵衛氏)です。
肥料商は米穀商を兼ねていることが多かったのと、
自ら運搬もするための、大きな船もたくさん持っていたので、
廻船業でも力を持っていました。
明治21年に出版された『尾陽商工便覧』に、
その2つの会社も描かれていますが・・・
▼井口商会
“米穀 肥料商 亀崎港 井口半兵衛 出来倉屋”
大きな蔵のほかに、「亀崎郵便局」「貯金取扱所(銀行)」も描かれています。
井口半兵衛氏は、亀崎郵便局長になっています。それ以前に、かつて亀崎公園前にあった郵便局を井口邸に移しているので、それがこの絵なのでしょう。
明治26年には亀崎銀行を設立しているので、この絵の描かれた明治21年頃であると、貯金取扱所と書かれているのはその前身なのかも?
▼萬三商店
“半田 小栗三郎 本店 その四 浜蔵の図”
でかい!!
萬三商店は、倉庫が多いので、図面がその1からその4まで渡って描かれています。
今でいう半田運河、正式名称でいうと十ケ川(じっかがわ)の船入江が描かれていますが、倉庫のすぐそばまで船を寄せていて、荷物運びがとても便利そうです。
▼半田運河沿い、萬三商店の倉庫があったあたりは、今は公園になっています。
現代では津波のイメージで海沿いの建物が敬遠されたり、ネット通販で宅急便が主流の時代では、海運にそこまでなじみがないので、「ふーん」という程度で見てしまいがちですが、
船が倉庫のすぐそばの岸につけている絵は、今風に解釈すると、
「名古屋駅を下りたらすぐ目の前にある会社」とか、
「空輸ヘリが庭先まで来てくれる会社」とかいうレベルの絵です。相当です、相当。
そう思うと、半田港、亀崎港って、すごい場所なんです。
小学生の頃に、社会の授業で、「濃尾平野は農業がさかん」と習った覚えはなんとなくあります。
たしかに、愛知県はビルの多い名古屋もあったり、トヨタみたいな産業もあって、近代的なイメージもありつつ、農地もかなり身近。
それは自然地形や気候がいい、というのもあるのですが、
明治時代に、半田港・亀崎港をキーステーションにして供給された「金肥」があったことで、知多や三河の農業が発展した、と言っても過言ではないようです。
そうだったのか~
なんか、地味だけどすごい感じ、しません?
ということで、タイトルに●●と書きましたが、
半田港、亀崎港から船で運ばれていたもの、それは、
酒、酢、金肥(きんぴ)!でした。
コメント
名古屋在住の歴史好きです。母が乙川出身で私も半田市生れ。
勉強させていただきます
コメントありがとうございます。私も勉強中の身ですので、地域の方々に教えていただくことばかりです。乙川は古い地形や地名も興味深い場所ですね。