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みなさんのふるさとって、どんな場所ですか?
「半田まちじゅう博物館」をご覧くださっている皆さまの中には、半田市出身の方もいれば、市外の方も多くいると思います。
「地元ってどんなとこ?」っていう話を友達とするとき、つい「なにもないまちだよ」と、言っちゃったことってありませんか?若かった頃、自分も地元のことをそう言ってしまったことがあります。
今では止まらないくらい良いところを自慢できますが、生まれてずっと地元にいる方が興味をもつのはきっかけがないと難しいものです。
目次
1.地名の由来を知った方がいい理由
「ふるさと」って、知ってるようでぼんやりしています。ぼんやりしてても、家族や友達や、昔遊んだ場所が思い浮かぶと、懐かしい気持ちになります。
でも、私たちは、災害でまちの様子が変わってしまう様子を見た経験があります。
実際に体験した方もいるし、これから体験することになるかもしれない。私たちはそういう国で暮らしています。
「ふるさとがなくなるかもしれない。」
そんなこと考えたくないけど、本当にそうなったらと思うと、なんかイヤです。
大きな災害の時、「消えてしまった昔の地名が、災害の記憶を示していた。」というニュースもたくさん目にしました。
敬愛するタモリさんが『ブラタモリ』でいつも言います。
「地形や地名は土地の記憶。行政の都合で土地の地名を変えてしまうなんて、エゴだ。絶対に変えてはいけない。」
いつもこの言葉を思い出しては感動し、励まされます。
地名を知ることは、土地の成り立ちを知ることになり、災害時のイメージがわくし、先人が未来の私たちに伝えたかったメッセージを受け止めて、街をどう続けていくかを考えるきっかけをくれる。これは、地域で暮らしていく力、教育にもつながるんだろうと思います。
「自分の住む町を、住んでいる人が一番知っている」そんな当たり前の状況を保つことがいかに難しくて尊いことか。記憶を消すことなく、子どもたちへ伝えていきたいものです。
「半田市民は全員、半田の地名の由来を、井戸端会議で議論できる!」そんな当たり前の風景がうまれたら、素敵だなと思います。
(由来が言える、ではなく、議論できる、というところが味噌です…(笑)理由は、このあと。)
2.半田市の成り立ち
現在の半田市の成り立ちの歴史は、以前の記事にも少し書きましたが、
現在、半田市の中で「半田」が地名で出てくるのは、正式には「半田市」だけです。
改めて、今の半田市になる変遷を追ってみます。
半田まちじゅう博物館の研究員・茶々丸が案内します。
半田市は、こんな形をしています。ハートみたいな形。
半田市は5つの中学校区に分かれていて、市内で話をするときは、この単位で表現することが多いです。
半田市は、今から約80年前の昭和12年に、亀崎町と、半田町と、成岩町が合併して半田市になりました。
亀崎町、半田町、成岩町という3つの町になるちょっと前の明治時代には、村が5つあって
更にもうちょっと前の江戸時代には6つの村がありました。「有脇村(ありわきむら)」「亀崎村(かめざきむら)」「乙川村(おっかわむら)」「岩滑村(やなべむら)」「半田村(はんだむら)」「成岩村(ならわむら)」の6つです。結局、その中の「半田村」を中心にして半田市になっていくというのは、名前からして何となくわかると思うのですが、さらに半田村の中には2つの区分けがありました。
JR半田駅のやや北に、踏切があります。正式名称は「第2半田街道踏切」です。が、半田では誰もそう呼んでいなくて、「大踏切(おおふみきり)」と呼んでいます。
今じゃ全然大きくないんですが、他のJRの踏切は今でも狭いところも多いので、きっと昔では大きい踏切だったんだと思います。
この大踏切あたりを境に、南が下半田、北が上半田と呼ばれています。
江戸時代にあった6つの村の中にあった半田村は、細かく分けると「上半田(かみはんだ)」と「下半田(しもはんだ)」に分かれていました。上と下がつくのは、川の上流と下流だったり、都の京都にルート上近いか遠いかだったり、だと思われます。
明確にどこまでが上半田とかいうラインは分からないのですが、上半田は紺屋海道あたりが中心で、下半田は半田運河とJR半田駅の間あたりが中心だったようです。
今でも、祭のときに特に、下半田・上半田と分けて呼ぶので、祭りのときに一番意識するかと思います。
ちなみに、江戸時代後半1800年前後のいろんな村の様子を記録した「尾張徇行記(おわりじゅんこうき)」という文献によると、「上半田は農耕中心の村。下半田は海辺の町で商売人や倉庫がたくさん集まってて、江戸に酒や酢を送ってたり、船大工が住んでて江戸廻船を造ってる。」という様子が描かれています。
▽『半田市誌』資料編より
上半田と、下半田の描写に現れているように、半田村の中心は、かつては上半田であったのですが、半田港の発展により下半田が江戸時代後半には半田村の中心だったことが記録からわかります。
結局、現代と比較してみると、最近では、郊外の住宅地が人気になり、中心性が薄れてきてはいるものの、下半田エリアには、市役所や商工会議所(元市役所があった場所)、NTTがあったりして、下半田エリアが半田市制の中心になったことがなんとなく分かります。
3.「はんだ」って何?
さて、「半田市」(はんだし)は、なぜ「はんだ」というのでしょうか?
小学生に聞くと、「田んぼが半分だったから?」という答えが絶対挙がります。そうですよね、漢字から考えるとそうなるのは当然です。
ちょっと知ってる方だと、「坂田村が半田村になったんでしょ?」という答えが返ってくるでしょうか。そうです、とても有力な一説ですが、あくまでも一説なんです!ぜひ、他にも説がいくつかあって、それを選択肢として並べた中で、ご自分がどの説を推すか、答えをもってほしいです!(その上で、ぜひ井戸端会議しましょう♪)
半田という地名は日本各地に古くからいくつもあります。
半田市の半田の由来については、いくつかありますが、主な説を6つ紹介するとこんな感じです。
半田市の公式ホームページには、②の坂田村の説を挙げてあります。
大正15年に発行された「半田町史」では、ハニの田という説が1番に出てきます。
ハニは、ハニワのハニで、赤茶色の粘土質の土のことをハニと日本では古くから呼んできたのですが、ハニ田が半田になった説です。
近くだと大府市にも「半の田」という字名があるのですが、そこも粘土質の田だったからという由来が考えられています。同じように、ハニ田も粘土質の土だったところを切り開いて、田んぼを作ったというような経緯から土地の名前が付けられたと想像できます。
だけど、「半田町史」には、「そんな単純なものじゃない!と地元民は言っている」ということも書いています。(半田町民のプライドからくる発言でしょうか?これもまた半田らしいなと思う胸きゅんポイントです。)
現在一番有力視されているのが、坂田村とか坂田郷という起源です。戦国時代の1513年に、上半田にいまもある順正寺がおおもとの名古屋の方から分かれてやってきたときに、本山から送られた阿弥陀如来の絵の裏に、永正10年(1513年)という年号とともに、「知多郡坂田郷」と書かれていることから、順正寺あたりが、坂田郷だったと考えられています。ちなみに、順正寺の住職さんの苗字も坂田さんです。坂田の読み方が半田になった、という説。文字資料として証拠インパクトがとても強いのでこの説が一番有力説になっていますが、本当のところはよく分からないです。
ほかに、あの『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九が、半田のお友達の小栗さん宅に遊びに来たときに、半田の印象を扇に書いた『半田里の記』というものが残っているのですが、そこにも
- 酒や木綿などの産物が多いから「繁駄」が半田になった
- 田に稲がたくさんあるから「喰田(ハミタ)」が半田になった
- サンスクリット語で智恵を般若というが才能がある人が多いから「般若の里(はんにゃのさと)」が半田になった
と聞いた話が書かれています。これは、十返舎一九による風流なのか、本当の話なのかはよく分からないですが、文字に残っているのは面白いなと思う話です。
十返舎一九『半田里の記』(1800年代)(『半田市の文化財』より)
結局、よく分からないというのが答えなのです。でも、おもしろいですよね。謎が多ければ多いほど、おもしろいんです。なぜなら、邪馬台国も、エジプトも、謎が多いから面白いんです。なぜ謎が多いって、歴史が古いからです。半田の地名の由来、みなさんはどれだと思いますか?
4.地名の古さは、音か漢字か
地名、ってとてもおもしろいです。
いろいろと調べていると、なんとなく地名の古い新しいの分類がこんな感じになってるな~と思ってメモ書きを作ってみました。
正確な分析じゃなくて、地名と、立地と、由来をいくつも調べて感じてきたところからのイメージなので、参考程度にさらっとみてください。
参考文献を省いて恐縮ですが、そもそも日本語とか大和言葉の成り立ちは、朝鮮半島の言葉をベースにした音の表現から始まって、仏教伝来とともに文字の文化が根付いて、既に存在していた音に対して漢字があてられるようになって、平安時代にひらがな文化ができたように、どんどん日本独自の言葉が増えていっています。
その言葉の成り立ちを参考に、地名の成り立ちを考えていくと、やっぱり音ベースっぽい地名は古いということが言えそうです。
例えば、「知多」「阿久比」って由来がなんなのか、すぐに想像つかないですよね?
「ち」と「た」、「あ」と「ぐ」と「ひ」とか、1文字に意味があるらしいんですが、この辺は、古代史の権威である日本福祉大学名誉教授の福岡猛志先生の論文に詳しく考察が書かれています。しかし、権威すら推測であり、私たち現代人がその語源を聞いても、今の感覚とちょっと違うので、すっと理解できにくいです。
次に、1つの漢字に音が2文字以上振られるような地名が増えていくと思われるのですが、その中でも、古いものほど漢字が当て字っぽい雰囲気が漂っています。
「常滑」(とこなめ)は、なんとなく、滑りやすい土地なのかな?って思いますよね。
床つまり地面がなめらかだから、まさに焼き物の町で粘土がたくさんとれる場所だったから、なんですが、でも粘土とれるからって、そういう場所を「とこなめ」って名前にしようって今の感覚だと思わないですよね?
結局、その音の方を見ていくと、古いなと思うことになります。どういう因果関係かは分かりませんが、奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』に、奈良にある吉野の滝のところを表現する際に「常滑」という表現が出てきますので、やっぱり古そうです。
※『万葉集』巻一(三十七)「見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む」
知多半島にはあまりないですが、条里制や城下町では職業集団で住む場所が決められていたことに由来する地名は多くあります。その場合は、奈良時代~江戸時代に起因することが多いでしょう。
知多半島で言えば、美浜は、河和町・野間町・小鈴谷町の上野間地区を合併する際につけられた地名、綺麗な漢字が付けられています。
武豊は、明治時代に長尾村と大洗村が合併する時に、両村の氏神様の名前を付け、長尾村の武雄神社と大洗村のと豊石神社からそれぞれ1文字づつとった合成地名。これらは行政の規模を変えるためにつけられた割と新しい地名の成り立ちです。
時代が新しくなるにつれ縁起のいい名前が増えていきます。「栄」「瑞穂」。
最新は、のぞみが丘、飛香台、のように、山林を切り開いた高台の新興住宅に開発業者がつける名前がトレンドです。
みなさんの家があるところの地名は、どれにあたりそうでしょうか?
5.結局、「はんだ」の由来は?
この分類に「半田」を当てはめてみると、当所の見解としては、半田は、音と漢字が入り混じった地名が付けられていた時代の産物で、「ハニ田」に由来する古い地名だと考えています。
でも、「地元の人がそんな単純なものじゃない」というのも分かります。なぜなら、そもそもはハニタだったとしても、そこに違う意味がくっついて、変化していったくらい土地の形状や、産業の発展状況が変わっていった街だから。
農業中心だった村が、江戸時代後半に半田港が常時大きな船の荷積みに対応できるようにつくられたことで、大きく産業がシフトして栄えたことで、半田の中心が下半田へ変わった。そこが、ゆくゆくは半田市の中心になった。そんな歴史が、半田をただのハミ田でなくした、そう考えられます。
「半田」の地名、奥深いです。
☆半田港が半田を変えた歴史を追うマンガ『古今半田衆巻第一半田停車場前』