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  • 何で、「はんだ」?~半田の地名由来~

    何で、「はんだ」?~半田の地名由来~

    みなさんのふるさとって、どんな場所ですか?

     

    「半田まちじゅう博物館」をご覧くださっている皆さまの中には、半田市出身の方もいれば、市外の方も多くいると思います。

    「地元ってどんなとこ?」っていう話を友達とするとき、つい「なにもないまちだよ」と、言っちゃったことってありませんか?若かった頃、自分も地元のことをそう言ってしまったことがあります。

    今では止まらないくらい良いところを自慢できますが、生まれてずっと地元にいる方が興味をもつのはきっかけがないと難しいものです。

    1.地名の由来を知った方がいい理由

    「ふるさと」って、知ってるようでぼんやりしています。ぼんやりしてても、家族や友達や、昔遊んだ場所が思い浮かぶと、懐かしい気持ちになります。

     

    でも、私たちは、災害でまちの様子が変わってしまう様子を見た経験があります。

    実際に体験した方もいるし、これから体験することになるかもしれない。私たちはそういう国で暮らしています。

    「ふるさとがなくなるかもしれない。」

    そんなこと考えたくないけど、本当にそうなったらと思うと、なんかイヤです。

     

    大きな災害の時、「消えてしまった昔の地名が、災害の記憶を示していた。」というニュースもたくさん目にしました。

    敬愛するタモリさんが『ブラタモリ』でいつも言います。

    「地形や地名は土地の記憶。行政の都合で土地の地名を変えてしまうなんて、エゴだ。絶対に変えてはいけない。」

    いつもこの言葉を思い出しては感動し、励まされます。

     

    地名を知ることは、土地の成り立ちを知ることになり、災害時のイメージがわくし、先人が未来の私たちに伝えたかったメッセージを受け止めて、街をどう続けていくかを考えるきっかけをくれる。これは、地域で暮らしていく力、教育にもつながるんだろうと思います。

     

    「自分の住む町を、住んでいる人が一番知っている」そんな当たり前の状況を保つことがいかに難しくて尊いことか。記憶を消すことなく、子どもたちへ伝えていきたいものです。

    「半田市民は全員、半田の地名の由来を、井戸端会議で議論できる!」そんな当たり前の風景がうまれたら、素敵だなと思います。

    (由来が言える、ではなく、議論できる、というところが味噌です…(笑)理由は、このあと。)

     

    2.半田市の成り立ち

    現在の半田市の成り立ちの歴史は、以前の記事にも少し書きましたが、

    http://hanpaku.com/2018/06/11/haihanchiken/

    現在、半田市の中で「半田」が地名で出てくるのは、正式には「半田市」だけです。

    改めて、今の半田市になる変遷を追ってみます。

    半田まちじゅう博物館の研究員・茶々丸が案内します。

    半田市は、こんな形をしています。ハートみたいな形。

    半田市は5つの中学校区に分かれていて、市内で話をするときは、この単位で表現することが多いです。

    半田市は、今から約80年前の昭和12年に、亀崎町と、半田町と、成岩町が合併して半田市になりました。

     

    亀崎町、半田町、成岩町という3つの町になるちょっと前の明治時代には、村が5つあって

    更にもうちょっと前の江戸時代には6つの村がありました。「有脇村(ありわきむら)」「亀崎村(かめざきむら)」「乙川村(おっかわむら)」「岩滑村(やなべむら)」「半田村(はんだむら)」「成岩村(ならわむら)」の6つです。結局、その中の「半田村」を中心にして半田市になっていくというのは、名前からして何となくわかると思うのですが、さらに半田村の中には2つの区分けがありました。

    JR半田駅のやや北に、踏切があります。正式名称は「第2半田街道踏切」です。が、半田では誰もそう呼んでいなくて、「大踏切(おおふみきり)」と呼んでいます。

    今じゃ全然大きくないんですが、他のJRの踏切は今でも狭いところも多いので、きっと昔では大きい踏切だったんだと思います。

    この大踏切あたりを境に、南が下半田、北が上半田と呼ばれています。

    江戸時代にあった6つの村の中にあった半田村は、細かく分けると「上半田(かみはんだ)」と「下半田(しもはんだ)」に分かれていました。上と下がつくのは、川の上流と下流だったり、都の京都にルート上近いか遠いかだったり、だと思われます。

    明確にどこまでが上半田とかいうラインは分からないのですが、上半田は紺屋海道あたりが中心で、下半田は半田運河とJR半田駅の間あたりが中心だったようです。 

    今でも、祭のときに特に、下半田・上半田と分けて呼ぶので、祭りのときに一番意識するかと思います。

     

    ちなみに、江戸時代後半1800年前後のいろんな村の様子を記録した「尾張徇行記(おわりじゅんこうき)」という文献によると、「上半田は農耕中心の村。下半田は海辺の町で商売人や倉庫がたくさん集まってて、江戸に酒や酢を送ってたり、船大工が住んでて江戸廻船を造ってる。」という様子が描かれています。

     

    ▽『半田市誌』資料編より

    上半田と、下半田の描写に現れているように、半田村の中心は、かつては上半田であったのですが、半田港の発展により下半田が江戸時代後半には半田村の中心だったことが記録からわかります。

    結局、現代と比較してみると、最近では、郊外の住宅地が人気になり、中心性が薄れてきてはいるものの、下半田エリアには、市役所や商工会議所(元市役所があった場所)、NTTがあったりして、下半田エリアが半田市制の中心になったことがなんとなく分かります。

     

    3.「はんだ」って何?

    さて、「半田市」(はんだし)は、なぜ「はんだ」というのでしょうか?

     

    小学生に聞くと、「田んぼが半分だったから?」という答えが絶対挙がります。そうですよね、漢字から考えるとそうなるのは当然です。

    ちょっと知ってる方だと、「坂田村が半田村になったんでしょ?」という答えが返ってくるでしょうか。そうです、とても有力な一説ですが、あくまでも一説なんです!ぜひ、他にも説がいくつかあって、それを選択肢として並べた中で、ご自分がどの説を推すか、答えをもってほしいです!(その上で、ぜひ井戸端会議しましょう♪)

     

    半田という地名は日本各地に古くからいくつもあります。

    半田市の半田の由来については、いくつかありますが、主な説を6つ紹介するとこんな感じです。

     

    半田市の公式ホームページには、②の坂田村の説を挙げてあります。

     

    大正15年に発行された「半田町史」では、ハニの田という説が1番に出てきます。

    ハニは、ハニワのハニで、赤茶色の粘土質の土のことをハニと日本では古くから呼んできたのですが、ハニ田が半田になった説です。

    近くだと大府市にも「半の田」という字名があるのですが、そこも粘土質の田だったからという由来が考えられています。同じように、ハニ田も粘土質の土だったところを切り開いて、田んぼを作ったというような経緯から土地の名前が付けられたと想像できます。

     

    だけど、「半田町史」には、「そんな単純なものじゃない!と地元民は言っている」ということも書いています。(半田町民のプライドからくる発言でしょうか?これもまた半田らしいなと思う胸きゅんポイントです。)

     

    現在一番有力視されているのが、坂田村とか坂田郷という起源です。戦国時代の1513年に、上半田にいまもある順正寺がおおもとの名古屋の方から分かれてやってきたときに、本山から送られた阿弥陀如来の絵の裏に、永正10年(1513年)という年号とともに、「知多郡坂田郷」と書かれていることから、順正寺あたりが、坂田郷だったと考えられています。ちなみに、順正寺の住職さんの苗字も坂田さんです。坂田の読み方が半田になった、という説。文字資料として証拠インパクトがとても強いのでこの説が一番有力説になっていますが、本当のところはよく分からないです。

     

    ほかに、あの『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九が、半田のお友達の小栗さん宅に遊びに来たときに、半田の印象を扇に書いた『半田里の記』というものが残っているのですが、そこにも

    • 酒や木綿などの産物が多いから「繁駄」が半田になった
    • 田に稲がたくさんあるから「喰田(ハミタ)」が半田になった
    • サンスクリット語で智恵を般若というが才能がある人が多いから「般若の里(はんにゃのさと)」が半田になった

    と聞いた話が書かれています。これは、十返舎一九による風流なのか、本当の話なのかはよく分からないですが、文字に残っているのは面白いなと思う話です。

    十返舎一九『半田里の記』(1800年代)(『半田市の文化財』より)

     

    結局、よく分からないというのが答えなのです。でも、おもしろいですよね。謎が多ければ多いほど、おもしろいんです。なぜなら、邪馬台国も、エジプトも、謎が多いから面白いんです。なぜ謎が多いって、歴史が古いからです。半田の地名の由来、みなさんはどれだと思いますか?

    4.地名の古さは、音か漢字か

    地名、ってとてもおもしろいです。

    いろいろと調べていると、なんとなく地名の古い新しいの分類がこんな感じになってるな~と思ってメモ書きを作ってみました。

    正確な分析じゃなくて、地名と、立地と、由来をいくつも調べて感じてきたところからのイメージなので、参考程度にさらっとみてください。

    参考文献を省いて恐縮ですが、そもそも日本語とか大和言葉の成り立ちは、朝鮮半島の言葉をベースにした音の表現から始まって、仏教伝来とともに文字の文化が根付いて、既に存在していた音に対して漢字があてられるようになって、平安時代にひらがな文化ができたように、どんどん日本独自の言葉が増えていっています。

    その言葉の成り立ちを参考に、地名の成り立ちを考えていくと、やっぱり音ベースっぽい地名は古いということが言えそうです。

    例えば、「知多」「阿久比」って由来がなんなのか、すぐに想像つかないですよね?

    「ち」と「た」、「あ」と「ぐ」と「ひ」とか、1文字に意味があるらしいんですが、この辺は、古代史の権威である日本福祉大学名誉教授の福岡猛志先生の論文に詳しく考察が書かれています。しかし、権威すら推測であり、私たち現代人がその語源を聞いても、今の感覚とちょっと違うので、すっと理解できにくいです。

     

    次に、1つの漢字に音が2文字以上振られるような地名が増えていくと思われるのですが、その中でも、古いものほど漢字が当て字っぽい雰囲気が漂っています。

     

    「常滑」(とこなめ)は、なんとなく、滑りやすい土地なのかな?って思いますよね。

    床つまり地面がなめらかだから、まさに焼き物の町で粘土がたくさんとれる場所だったから、なんですが、でも粘土とれるからって、そういう場所を「とこなめ」って名前にしようって今の感覚だと思わないですよね?

    結局、その音の方を見ていくと、古いなと思うことになります。どういう因果関係かは分かりませんが、奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』に、奈良にある吉野の滝のところを表現する際に「常滑」という表現が出てきますので、やっぱり古そうです。

    ※『万葉集』巻一(三十七)「見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む」

     

    知多半島にはあまりないですが、条里制や城下町では職業集団で住む場所が決められていたことに由来する地名は多くあります。その場合は、奈良時代~江戸時代に起因することが多いでしょう。

     

    知多半島で言えば、美浜は、河和町・野間町・小鈴谷町の上野間地区を合併する際につけられた地名、綺麗な漢字が付けられています。

    武豊は、明治時代に長尾村と大洗村が合併する時に、両村の氏神様の名前を付け、長尾村の武雄神社と大洗村のと豊石神社からそれぞれ1文字づつとった合成地名。これらは行政の規模を変えるためにつけられた割と新しい地名の成り立ちです。

     

    時代が新しくなるにつれ縁起のいい名前が増えていきます。「栄」「瑞穂」。

    最新は、のぞみが丘、飛香台、のように、山林を切り開いた高台の新興住宅に開発業者がつける名前がトレンドです。

    みなさんの家があるところの地名は、どれにあたりそうでしょうか?

     

    5.結局、「はんだ」の由来は?

    この分類に「半田」を当てはめてみると、当所の見解としては、半田は、音と漢字が入り混じった地名が付けられていた時代の産物で、「ハニ田」に由来する古い地名だと考えています。

    でも、「地元の人がそんな単純なものじゃない」というのも分かります。なぜなら、そもそもはハニタだったとしても、そこに違う意味がくっついて、変化していったくらい土地の形状や、産業の発展状況が変わっていった街だから。

    農業中心だった村が、江戸時代後半に半田港が常時大きな船の荷積みに対応できるようにつくられたことで、大きく産業がシフトして栄えたことで、半田の中心が下半田へ変わった。そこが、ゆくゆくは半田市の中心になった。そんな歴史が、半田をただのハミ田でなくした、そう考えられます。

     

    「半田」の地名、奥深いです。

     

    ☆半田港が半田を変えた歴史を追うマンガ『古今半田衆巻第一半田停車場前』

     

     

  • 心と体の病を救う「お薬師さん」

    心と体の病を救う「お薬師さん」

    流行り病があるとき、心が不安になるとき、古くから人々は「お薬師さん」に救いを求めてきました。

     

    「お薬師さん」とは、「薬師如来」という仏さんのことです。薬師如来像という仏像として、「薬師寺」と名の付くお寺にいることが多いですが、お参りしたことがありますか?

     

    1.半田市内の「薬師」

    半田市で、「薬師」のつくもので、良く知られているのは、

    • 榎下町(半田赤レンガ建物の南)の薬師寺
    • 東郷町(常楽寺の南)の西薬師教会
    • 成岩本町(成岩小学校の東)の北薬師教会
    • 有脇町の「真古酌の薬師水」
    • 地名「乙川薬師町」

    などが、お馴染みでしょうか?

     

    ▼海照山 薬師寺(半田市榎下町)

     

    紺屋海道の中にある薬師寺。

     

    中央にいるのが薬師如来像。

    かつて寺の前まで海だったことが、堂内の絵で伝えられています。

     

    ▼西薬師教会(半田市東郷町2丁目)

    常楽寺へ向かう坂の途中にある小さなお堂。

     

    ▼北薬師教会(半田市成岩本町2丁目)

    成岩小学校の東側にあるお堂。

    ご本尊はいつもは見られません。

     

    ▼真古酌の薬師水(半田市稲穂町1丁目)

    有脇ののどかな風景の中にある井戸。

    戦国時代の有脇の城主・石川与市兵衛が住民の無病息災を願って、お屋敷の北東の方角に薬師如来像を祀るお堂を建て、「与市山のお薬師さん」と呼ばれていたそうです。

    この薬師堂は昭和47の台風で壊れて、薬師如来像は同じ有脇町の福住寺に安置されています。

    ▼乙川薬師町

    (国土地理院地図より)

     

    (2019年の観光協会の乙川祭の山車巡行図より)

     

    乙川祭でも乙川交番のあたりが「元薬師」と呼ばれているので、馴染みがある方もいるかもしれません。

    乙川は、大御堂という地名があるけど、大きなお寺があったと言われていますが、謎めいていて、はっきりと詳しいことが分かっていません。それが薬師寺だったかどうかも分かりませんが、元薬師、薬師町という地名は興味深いものがあります。

     

     

     

    この他にも、大きなお寺の境内に「薬師堂」があったり、お地蔵さんと呼ばれているものが、正式には薬師如来という種類だったり、ということもあります。

    ↑常楽寺の境内にある薬師堂

     

     

    皆さんの身近な「お薬師さん」は、どちらですか?

     

    2.「お薬師さん」とは?

    「お薬師さん」の正式名称は、「薬師如来」。薬師如来は仏教の如来(にょらい)の1人です。如来は悟りをひらいた仏のこと。

    仏教をひらいたのはゴータマ・シッタールダ(ブッダ)ですが、彼はまだ菩薩としての修行中に、自分が悟りを開いた仏になったらやりとげる12の誓いを立てました。その中には、「病気を治す」ということもありました。

     

    仏教をすべて理解することは難しいかもしれませんが、日本の民衆生活のなかでは、宗教というよりは、大衆文化に近い存在として生き続けてきたところが、仏教のおもしろいところです。悟りの内容はそこまで詳しくないけど、なんとなく仏教にまつわる風習を私たちは知っています。

     

    「お薬師さん」は、人々が心や体を病むときに、祈ることで薬師如来は救いを与えてくれる、と信じて大切にされてきました。病気とは、体だけではなく、心も含みます。薬師如来は別名「医王」とも言われます。

    具現化された仏像「薬師如来像」の多くは、左手に薬壺(やっこ)をもっています。その壺には、苦しみを取り除く霊薬が入っているといわれています。どんな苦しみにも効く薬があったら、本当にいいですよね。

     

    薬師如来像は、右手は施無畏(せむい)というポーズ、「おそれることなかれ」つまり「こわがらなくていいんだよ」というメッセージを持っています。

     

    西の方角にあるという極楽浄土の阿弥陀如来に対して、東の方角にある瑠璃光浄土に住んでいるといわれます。

     

    薬師如来を支える看護師のような存在として、日光菩薩・月光(がっこう)菩薩を従えると、薬師三尊と言われます。「菩薩」は悟りにむけて修行中の身。

     

    ↑日光菩薩(左)と月光菩薩(右)

     

    さらに薬師如来に限らずですが、東西南北を守る四天王(持国天、広目天、増長天、多聞天)と、十二神将がガードマンとしていたりします。

    お寺の売店で十二支ごとの仏像のお守りを見たことがあるかもしれませんが、あれが十二神将です。

    仏像としては表現されることは少ないですが、十二神将の配下には1体につき、7000人の部下がいて、12の方角に分かれて護衛しています。

     

     

    薬師如来に念じる時の真言(しんごん)、つまり合言葉のようなものは、

    「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」

    と言います。

    ↑常楽寺境内の薬師堂

     

    真言はこんな風にお堂に書いてあることが多いですので、お参りの際には口に出してみると、きっと薬師如来に届きます。

     

    3.生活の中の「お薬師さん」の存在意義

    こうした民間の風習は、現代においてはとても非科学的だと思う人が多いかもしれません。

    ただ、文化・風習として溶け込んできたお薬師さんの存在は、決して病を宗教で直そうとしてきたのではなく、自分の心の中や、体の状態を、お薬師さんへ投影する時間を持つことで、心を安らげるための世界観を自分の中に作るようなものだと思います。

    世の中が不安に包まれるときこそ、自分を顧み、心を強くし、周りを思って生きたいものです。

     

  • 丘の上から人々を見守る「中蓮古墳」

    丘の上から人々を見守る「中蓮古墳」

    2019年7月、大阪府にある「大仙(だいせん)古墳(伝・仁徳天皇陵)」などの古墳群が、ユネスコの世界文化遺産に登録されることが決まりました。大仙古墳は、全長486mもある日本最大級の前方後円墳です。

     

    ところで、半田市にも古墳があるのをご存じですか?

     

    大阪府の古墳群ほど大きなものはないものの、いくつかあります。
    残念ながら今はハッキリとした形で残っているわけではありません。
    でも、気軽に見られる場所に、古墳の一部を見ることができるのです。

     


    半田市と武豊町の境に、イオン半田店があります。

    半田市の住所で言うと有楽町。武豊町の住所で言うと石川あたり。
    その屋上駐車場にのぼってみて、西側(半田市花園町の方向)を見下ろすと、ちょっとした森があります。


    もっと目を凝らすと、祠が建っています。

    小さな祠と、よく見るとお酒も供えてあります。

    これは、「中蓮(ちゅうれ)古墳」の崩れ跡を示す祠です。

     

    1.中蓮古墳とは

    「中蓮(ちゅうれ)古墳」とは、半田市の南部から武豊町北部の丘陵上にあった7基の古墳群のことを言います。

    (1)中蓮古墳のデータ

    「中蓮古墳」と呼ぶと、特定の1基の古墳をイメージしてしまうのですが、本来は7基あったということなので正式に呼ぶのなら「中蓮古墳群」が正しいのでしょうが、現在は7基のうち1基が残存しているので、このように呼ばれています。

     

    中蓮古墳データ

    種類 円墳
    規模 直径16~17m
    残存状況 昭和初期まではこのあたりに7基ほどの円墳があり、墳丘は流され石室だけが散見された。
    出土品 横瓶、ほか不明
    造営時期 7世紀はじめ頃(古墳時代後期)

     

    ここには、かつて半田市、武豊町の境を示す一本大松が生えていたといわれます。

    成岩から武豊町にかけて、「中蓮」「若宮」という小字名周辺に分布する古墳は、かなりの数にのぼったらしく、武豊町の武雄神社が郷社に昇格するために作成した明治時代の資料には「柴田常恵氏調査」と付記して9基の古塚が記入されている。柴田常恵(しばた じょうえ)氏は、愛知県出身の明治~昭和の考古学者。

    北から見ると、武豊町との境界をまたいで分布するのが中蓮古墳で70mほどの間隔を置いて3基、つづいて谷の出口をふさぐように南北にのびる馬場の砂堆を望む若宮の丘陵には30mほどの間隔で4基、池田に1基、さらに高野前や西門にもそれぞれ1基が図示されている。しかし、この付近はその後の開発によって地形が大きく変わり、ほとんどその形跡さえとどめていない。

    そんななかで、今わずかに残っているのが中蓮古墳の1基で、中部旭紡績の敷地内に土盛りと祠がありその位置をとどめている。

     

    (出典:『半田市誌』)

     

    (2)須恵器が出土している

    昭和30年頃の工事中に、墓室に供えられた副葬品と思われる「横瓶(よこべ)」が出土して、半田市博物館に保管されています。

    (出典:『半田市誌』)

     

    横瓶は、須恵器の1種。
    6世紀~7世紀、古墳時代後期の副葬品に多く見られます。
    米俵のような形をしていて、主に酒などの容器と言われています。

     

    横瓶は長径36cmの俵形の胴部を横長にすえてその中央の頂部に口頚部をつけたもので、全面にたたき目を残して整形したうえ幾条もの沈線で飾っている。

    東海地方の古墳出土の須恵器としては、第3型式から第4型式にかけて出土する器種であるが、口頚部にみられた横線の省略や口縁部の段の退化などから第4型式(6世紀末~7世紀)に編年される資料である。

     

    (出典:『半田市誌』)

     

    と、半田市誌には書かれていて、なんだか小難しいですが、

    つまり、全国で積み重ねられてきた須恵器の研究成果から、

    そもそも横瓶が出てくる時期が古墳時代後期がメインだったり、

    フォルムや、

    空気を抜くために表面を木板で叩いた跡や、

    形の整え方などの、

    技術的なトレンドから、7世紀初頭のものと考えられているということが書かれています。

     

    そして、7世紀初頭のものと思われるこの須恵器が出土したということで、これが供えられた古墳の造営時期が7世紀初頭と考えられています。

     

    古墳時代は、
    生活用の土器としては、赤っぽい素焼きの土器「土師器(はじき)」を使っていました。

    土師器

    穴窯で固く焼いた、灰色の陶器「須恵器(すえき)」は、まだ古墳の副葬品や、おそらく限られた人しか使っていなかったでしょう。平安時代の後半以降は、窯で焼いた陶器は、庶民的な食器になっていきます。

    須恵器

     

    (3)中蓮古墳のある場所

    今はイオン半田店があるこの場所。

    昭和50年(1975)この地にあった大信紡績を引き継ぐ形で、中部旭紡績名古屋工場(千種区猪高町猪子、跡地はユニーサンテラス千代田橋店)が移転してきました。

    その後、中部旭紡績は斜陽産業となり、工場を閉鎖解体して不動産事業に転換し、平成7年にジャスコ半田店となり、現在はイオン半田店となっています。

    地元ではまだジャスコと呼んでいる方も多いのではないでしょうか。

    昭和50年代の大信紡績の機関紙「むつみ」には、

    ・この辺りの畑の人は散乱していた石を積み重ねて庚申様を祀り、

     庚申塚とよび、土地が買収されるまであった。

    ・戦争前荻洲中将が大変ながめがよかったので一本松を中心に別荘を建てようとした。

     易者に見てもらうと「あそこは、何かあったところだから、何かお祀りをしなければ

     いけない」といわれ、土地の者に問い合わせたところお塚さんの場所といわれ

     取り止めた。

     

    などの記事があったようです。だから今でも、小さな祠や、お酒が供えられているのでしょうか。

    おもしろいのは、「古墳」というワードが1つも出てこないということです。

    「庚申塚」「お塚さん」という認識をされていた昭和の時代には、これが「古墳」だったという認識が地域の人にはなかったかもしれないのです。

     

     

    なぜ古墳という認識がされていなかったのでしょうね?

     

     

    2.そもそも古墳とは?

    簡単に云えば「古墳」は古代のお墓ですが、

    日本では、とくに3世紀半ば(紀元250年頃=今から1770年前頃)から

    7世紀代(飛鳥時代の前まで=今から1300年前ほど)にかけて

    築造された墳墓のことを「古墳」と呼びます。

    壊されたりくずれたりしたものも多くありますが、

    今でも全国に約16万基あると言われます。

     

    (1)古墳の種類

    古墳にはいろいろと種類があります。

    小学校の社会で習う前方後円墳が一番インパクトがあります。

    でも、他にも前方後方墳、円墳、方墳、帆立貝形古墳、八角墳、双方中円墳・・・

    いろんな形の古墳がありますが、実は円墳が最も多く8~9割を占めます。

    なぜ円墳が一番多いかというと、円は一番簡単に作れる形だからです。

    誰しも小さい頃に、砂場でお山を作ったことがあると思いますが、土台部分が三角や、四角の山を作るのって難しいですよね。

     

    (2)古墳の魅力

    私は奈良で過ごした大学時代に考古学を専攻して、古墳大好き女子大生でした。発掘調査に参加させてもらったり、関西で現地説明会があれば行ったり、仲間と古墳巡りをしました。
    いまだに家族旅行中に近くに古墳があると隙あらば寄らせてもらうほど魅了され続けています。

    お墓に魅了されるなんて、今の感覚だとおかしいのですが、エジプトのピラミッドと同じく、

    「なんでこんな形?」

    「なんでこんなに大きいの?」

    「中にどんな宝があるの?」

    「どんな偉い人のお墓だったの?」

    というミステリーを、簡単に解くことができないところが楽しいところです。

    立地、周辺の状況、時期、古墳の上や中に入っているモノなどから、総合的に考えて、導き出すことしかできなくて、本当に文字で正解が分かることはまれです。

    一生、ミステリーのままというところが魅力だと思います。

     

    と、古墳のことになるとついつい熱くなってしまいますが、
    決してマニアックなものでも、敬遠されるものではない、身近なものです。

    なぜなら、1300年前くらいの歴史を伝える構築物が、今も生活の風景の中に普通に存在しているということがすごいと思いませんか?

     

    私に考古学を教えてくれた大学の先生は、古墳の話をするときにいつも「等身大の歴史」を感じられるのだと言っていたのが印象的でした。

    「昔の人は、今と感覚が違うから、こんな変なお墓を作ったんだ」と、シャットアウトするのではなく、

    今の自分が「古墳、でか!」と思う感覚は、まったく昔も一緒だったと思います。

    そのうえで、生活の風景の中に、違和感のある大きなお墓が、丘の上にあるという意味を考えてみると、おもしろいです。

     

    「偉い人のお墓なのかな」

    と考えると、一瞬で妄想は終了してしまって楽しくないのですが、

    「自分の、ひいひいひいひい・・・おじいさんが、この場所に立って、同じ景色を見ていたとき、一体どんな気持ちで生活していたんだろう。」

    と考えると、妄想が止まらなくなって楽しいのです。

     

    (3)中蓮古墳がつくられた頃を妄想してみよう

    中蓮古墳について妄想してみましょう♪

     

    疑問その1「なんでこの場所なんだろう?」

    古墳群があったのは、字名にもなっている「石川」という川が、山から海へ流れていく低地の北西にある、小さな丘の上。

    (出典:時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」)

    現代では、整然とした住宅街のイメージの強いこのエリアですが、
    国土地理院地図の起伏を参照してみると、細長い尾根の先端。

    この台地上の北端の方には、戦国時代に「成岩城」という城が築かれました。戦国時代のお城は、戦いを想定するような山城です。まさにそんなポジションにあった成岩城。その台地と同じような高さに古墳があった、ということになります。なんででしょう??

    (出典:国土地理院地図)

    この丘の形が浮かび上がってくると、確かに道路もこの形になっていると気づきます。

    道路も昔の地形を伝えているのですね。

    というか、地形にわざわざ逆らって道路を作るのは、大変なので、こういうことになるといった方が正しいでしょうか。

    私のように地形ファンには、昔の地形をあんまりいじらないでくれたことは、ありがたいことです。

    (出典:国土地理院地図)

     

    台地の上に作られた古墳、いい場所にあります。

    今でも「お墓は小高い丘がいい」という年配の方は多いですよね。そんな感覚。なぜ亡くなってから、人々は小高い丘に行きたがるのでしょうか?

    いい場所、と私たちが思う丘の上というのは、いかにも、石川やその周りにあった田んぼや、この田んぼを守りながら住む人々を見下ろせるエリアです。

    愛する子孫を見守りたい、という感覚があるんだろうというのは、現代の感覚でも容易に想像できます。

     

    でも、直径16~17mもの大きなお墓を作る意味って何だろう?

     

    疑問その2「なんで中蓮っていう名前なんだろう?」

    この古墳のさらに北西には「中蓮公園(ちゅうれんこうえん)」という公園があります。場所としては台地上、木の実がたくさん落ちている子供が遊べる公園です。

    この中蓮古墳は、ちょうど半田市花園町2丁目と、武豊町豊成1丁目とにまたがっています。

    国土地理院地図に「中蓮」と書かれていて、今では武豊町側の字名になっていますが、昔は半田と武豊にまたがって、なんとなくこの台地上が「中蓮(ちゅうれん、ちゅうれ)」という小字名だったんだろうなと分かります。

     

    半田市側の江戸時代は「成岩村」、武豊町の江戸時代は「長尾村」。江戸時代後半の天保15年の成岩村絵図を見てみると、まさに中蓮公園のあたりに「中連」と書かれています。

     

    「蓮」ではなく「連」です。

    全国的な地名の傾向として、「蓮」がつく地名というのはまずは単純に沼地。そして、仏教的な要素がある土地です(お寺など)。しかし、中蓮古墳があるのは台地上で沼地ではありません。

    そういう意味では、「中蓮」はもしかしたら、新しい時代になったときに美しい字という意味で「中蓮」に変換されたかもしれません。こういったことはよくあることです。

     

    では「中連」はどういう意味でしょうか。

    あくまでも推察ですが、台地の両側はやや低いエリアで、半島状になっているという意味の「中」、川から離れた小高い台地上には人々の居住地が連なっていたという意味の「連」ではないかと思います。

    と、中蓮という地名について掘り下げて考えてみたものの、古墳を作った7世紀の人が中蓮古墳と呼んでいたわけではありません。

    後世の人が、いつからか中蓮古墳と呼んで伝えたと思われます。名前を付けたときに、このエリアが中蓮と呼ばれていたということが分かります。

    そして、さきほど紹介した紡績会社の伝える話によると、昭和以前には、中蓮古墳と呼ばれていたわけではなく、「庚申塚」と呼ばれていたようで、中蓮古墳と呼ばれ出したのは、昭和の時代だったと思われます。

     

    妄想しだすと違う方向に行ってしまうような気がしますが・・・、その場所の個性を考えているので、結局のところ、中蓮古墳のミステリーを明かす方向に繋がってくる気がするのが楽しいです。

     

    疑問その3「なんで7基あったんだろう?」

    細かい説明をすっ飛ばしてしまいますが、多くの研究から分かることは、
    複数の円墳がまとまった場所につくられるのは古墳時代の後期の特徴ということです。
    こういう古墳は「群集墳(ぐんしゅうふん)」と呼ばれます。

     

    群集墳は、数が多いものだと和歌山県にある岩橋(いわせ)千塚古墳群(600基以上)、岐阜県にある船木山古墳群(111基)などが有名ですが、数基~数十基レベルの群集墳は身近なところにたくさんあります。

     

    岩橋千塚古墳群は、1つの大きな山という感じの場所で、整備された公園のようになっていて、何度か行きましたが古墳の石室内に入ってみることもできるので面白いです。

    (↑岩橋千塚古墳群の案内板。おびただしい数の円墳があります)

     

    中蓮古墳は7基あったとのことですが、そのすべてが同時に作られたかもしれないし、違う時期に作られたかもしれません。

    全国の傾向を見ると、群集墳は数基単位で、時期をちょっとずつずらして、作られることが多いです。まるで、おじいさん世代、親世代・・というような感覚をほうふつとさせるような時期差もあります。

    (奈良県新沢千塚古墳群)

     

    前方後円墳(古墳時代前期・中期に多い)は特定階層の王様が葬られていたのですが、

    それと同じく、群集墳(古墳時代後期)も誰でも作れるわけではなく、主に、村の長のような立場の人の家族単位のお墓と考えられています。

     

    また全国の事例から言えることは、群集墳は、集落の近くの丘の上に作られることが多いです。これはわりと分かりやすい話かと思いますが、
    弥生時代に始まった農耕を中心とする時代に、田畑や、それに必要な川や、人々の家や、交通に必要な道や海を見渡せる位置に築かれているのです。

     

    古墳は、亡くなった人を弔うお墓でありながら、
    それ以上に、生きている人のための存在が大きいのが、おもしろいところです。

     

    「稲の成長はどうか?」

    「川の水は溢れないか?」

    「人々は、しあわせに暮らせているか?」

    「しあわせな生活を邪魔する敵が、道や海からやってこないか?」

    まるでそんなことを見守ってくれるようなポジションに古墳があります。

     

    「ふーん、なるほどね」と感じられた方は、古墳時代に生きていた先祖と、通じる感覚があるということになりますが・・・それ以上に時代背景の違いがありますよね。

     

    現代では個人で墓を持って、自分の先祖の墓しかお参りしませんが、
    古墳は不特定多数の人に見える位置にあります。

     

    考古学で古墳のことを研究する際、大きくかかわってくるのが人間の死生観です。

     

    科学が進んで、人間の生死を説明できる現代、
    死んだ人のことを写真で思い起こせる現代では、墓じまいも選択肢の一つになってきました。

    古墳時代には、人間の生死を科学的には説明できなかったと思われますので、
    神の力にその理由を求めていたような時代であったと考えられています。

    神とは、アマテラスみたいな日本書紀や古事記に出てくるような神様もイメージしますが、亡くなった先祖が神になって自分たちを見守ってくれるという感覚が、どうも古墳の築造から読み取ることができるのです。

     

    これも少しだけ、現代の私たちも理解できますよね。「死んだらお空に行く」「星になる」と子どもに説明したことがあるかもしれません。そんな感覚です。

    古墳時代には、死んだ人のことを思い起こすための写真や、功績や教訓を伝える文字もまだありません。だからこそ、生きている人に見える形で、古墳は「わざと大きく」「わざと小高い位置に」あると思われます。

    古墳は、村の安全や、五穀豊穣を守るために、村のルールを作って統率してきたリーダーが、死んでもなお丘の上から見守っているという緊張感・安心感などを与えるための、「生き残った人たちに見せるお墓」だったと思います。

     

    具体的な事象説明を飛ばして文字に起こしているのでちょっと飛んだ説明に見えるのですが、膨大な量の研究成果から、このように考えられるという考察に拠っています。でもものすごい数のある群集墳はすべてが解明されているわけではありません。興味のある方はぜひ古墳について一般向けにもたくさんの本が出ているので見てみてください。

     

    7基あったといわれる中蓮古墳も、人々や村の様子を見守ってくれるように、1基つくられ、2基作られ・・・と時期をずらして作られていったのでしょうか。

     

    3.中蓮古墳が教えてくれること

    「中蓮古墳っていう古墳が、ジャスコから見えるんだよ」と言われれば、「ふーん、教科書で習った古墳が身近にあるんだねー」ということに尽きるのですが、 

     

    自分の等身大の感覚と、中蓮古墳のことを交互に思い浮かべると、

    「人間が生まれて、死んでいくという事実は、人類誕生以降ずっと変わらない事象なのに、
    死生観が変わると、お墓の在り方は随分と変わるのだなあ」
    と実感しませんか?

     

    昭和の頃の記録では、中蓮古墳は古墳と認識されず、「古い塚」として祀られていました。

    誰かのお墓なんて感覚ではなく、なんとなく神様がいるって伝えられてるから「今でも祠やお酒でこの場所が祀られている」という生活風景でした。
    これが、この地域の人に根付いている「先祖を神のように祀る」という風習を変わらずに引き継いでいる光景です。

     

    変わること、変わらないこと、
    良い悪いではなく、どちらもおもしろい文化。

     

    この説明のできない、生活に染み付いた、非科学的で、まじめに考えると意味不明な現象こそ、地域のアイデンティティにつながっているようで、非常におもしろいと思うのです。

     

  • 【亀崎潮干祭】祭の発祥とからくり人形

    【亀崎潮干祭】祭の発祥とからくり人形

    2019年5月3日、4日、亀崎の神前神社(県社:けんしゃ)の祭礼「亀崎潮干祭」が行われました。

    潮干祭は海に山車をひきいれるシーンが有名で県外からも多くの見物人が集まります。2016年 には「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産へ33件の1つとして登録されました。

    潮干祭の発祥

    潮干祭という呼び方は新しく、古くは祭、亀崎祭と呼ばれていました。いい伝えによれば、応仁・文明(15世紀後半)の頃、この地に来着の武士達が神社付近(寺山)に移住し、人口が増えてきて、祭を行おうということになり、神官の指図により荷車のような台車に笹竹を立て、神社神紋の幕を張り、囃子を入れ町内を曳き㢠わしたのが起源とされます。
    その後、町の発展に伴ない現在の如く東組、石橋組、中切組、田中組、西組の五組による山車祭礼の形態が出来あがったといわれます。

    海岸段丘、段丘崖のある亀崎。山があってすぐ海のある珍しい地形なので、坂が多く、人が住む場所としては小さなエリア。しかし江戸時代からの海運 商業の発展で人口や財力に富み、商家が肩狭く並ぶ通りもありながら、立派な家も時々目に留まるような街並。その財力と伝統文化が山車の豪華さに表れています。

    なぜ海浜に曳下ろすの?

    ところで潮干祭では、なぜ海に山車を曳き込むのでしょうか?

    江戸時代の終わり頃の様子を描いた『尾張名所図会 小治田之真清水』にも、亀崎祭礼は海へ山車をひき入れている様子が描かれています。

    ▲『尾張名所図会 小治田之真清水』はWEB公開されていて、誰でも見ることができます

     

    神前神社の祭神が神倭磐余彦命(神武天皇)であるところから神武東征のときに、亀崎の「州の岬」から上陸されたのにちなんで山車を海へ下ろしたのだという説があります。

    亀崎は海の街だからなるほど、という感じなのですが、神武東征がさかんに言われ出したのは明治以降なので、江戸時代には既に海浜へ下していたこととの関連性はわからないのです。
    ただ、海運や漁業で町が発展して勢いのある時期に、こうした伝説めいたハクがついて、地域の人々がそれを受け入れていくのもある意味の文化。人々にとっての真実になって、今もそれが伝えられているということが面白いところです。

     

    からくり

    海浜曳下ろしとともに人気な見せ場が、からくり人形の奉納です。各山車の前棚と上山(うわやま)にからくり人形を出して、隠れ遣いで操作します。

    前棚人形

    山車の前面にせり出した舞台上の棚、前棚に人形を出し、幕の後ろから人形を操作します。

    東組宮本車・前棚人形「三番叟」

    「半田の祭は宮本が三番叟を奉納する」という風習が古くからあります。(詳しくはこちらで紹介しています。)亀崎も宮本車が三番叟を奉納します。

     

    中切組 力神車・前棚人形「猩々の舞」

    人形の製作は安政年間(1854-59)。振り返ると猩々(しょうじょう)の面をつけていたり、外していたりするところが見所です。猩々とは、猿に似た前身の赤い伝説の生き物です。「猩々の舞」は能楽の1つで、真っ赤な能装束で飾った猩々が、酒に浮かれながら舞い謡います。

    振り返り、戻るといつの間にか猩々のお面をかぶっています。

    石橋組青龍車・前棚人形「布ざらし」

    越後の国(新潟県)の角兵衛獅子を題材にした舞踊「越後獅子」の一コマを演じます。

     

    舞踊衣装を着た女性の人形はたすき掛け、頭に手ぬぐいを姉さんかぶりで、布ざらしをします。

    「越後獅子」は文化8年(1811)3月に作曲され、大好評を得た舞踊音楽。当時流行していたこの舞踏音楽をからくり人形に取り入れられたと考えられます。

    この人形の動作は、回転、左右、両手の上下回転、首の上下左右、胴曲げ、胴のそり、両足の上下、布おとし等があり、操り糸は15本、操者は5人。

    囃子方としては人形の操者によって歌われるのみで、三味線や笛は使いません。

    人形は弘化2年(1845)の箱書きがあるがそれ以前の作と言われます。

    <歌詞>

    ここはたまがわ いでのさと

    さらしさらすの お目見えは

    我が身ながらも 恥ずかしや

    見渡せば 見渡せば 西も東も花のかお 花のかお

    いずれも賑おう 人の山 人の山

    打ち寄する 打ち寄す 女波 男波の絶え間なく

    逆巻く水の 面白や 面白や

    さらす細布 手にくるくると

    さらす細布 手にくるくると

    いざやかえらん おもでたや

     

    田中組 神楽車・前棚人形「巫女の舞」

    巫女が鈴を持って舞います。

    西組 花王車・前棚人形「神官」

    神官が舞います。人形は天保年間の作。西組は初日(前の日)のみ神官、後の日は別の人形が登場します。

    西組 花王車・前棚人形「石橋」

    西組は、後の日(2日目)は前棚人形が変わります。

    「石橋(しゃっきょう)」は能で、祝言の色合いをもった舞いです。

    両手に牡丹を持った獅子が、石橋の向こうから現れるように舞います。

     

     

    <「石橋(しゃっきょう)」のあらすじ>

    中国・インドの仏跡を巡る旅を続ける寂昭法師は、中国の清涼山にある石橋付近に着きます。

    そこにひとりの樵の少年が現れ、寂昭法師と言葉を交わし、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であること、この橋は狭く長く、深い谷に掛かり、人の容易に渡れるものではないこと(仏道修行の困難)などを教えます。

    そして、ここで待てば奇瑞を見るだろうと告げ、姿を消します。

    寂昭法師が待っていると、やがて、橋の向こうから文殊の使いである獅子が現われます。

    香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れ、獅子舞を舞ったのち、もとの獅子の座、すなわち文殊菩薩の乗り物に戻ります。

    上山人形

    東組宮本車・上山人形「御湯取神事」

    禰宜と舞姫による湯取神事です。今でも奈良の「おんまつり」では湯取(湯立)神事が行われていて、とても古い時代から行われている神事と考えられます。

    湯取神事とは、神前で大釜に湯を沸かし、巫女や神職が笹や榊の葉を釜の湯に浸し、湯を振り掛けることによって祓うものです。

    禰宜と舞姫の人形は天保年間の作。最後に釜の中から湯に見せかけた花吹雪が舞います。

    石橋組青龍車・上山人形「唐子遊び」

    人形は3体あり、天保12年(1841)4月の箱書きがありますが、文化文政期のものと考えられています。昭和48年、青年を中心とした組員一同の努力により復元されました。

    唐子人形はサーカスのような動きをします。中央の人形は途中から逆立ちをして金をたたきます。(この日はちょっと調子が悪かった…)

    中切組 力神車・上山人形「浦島太郎」

    亀に乗った浦島太郎と、乙姫が出てきて、昔話の通り乙姫からもらった箱を開けてしまうと煙が出て、おじいさんになってしまった浦島太郎。

    腰をトントンと叩くしぐさがおじいさんらしいです。

    冒頭にタコやフグやヒラメが出てくるところが、子どもが見てもわかりやすくて、かわいらしいです。

    田中組 神楽車・上山人形「傀儡師」

    田中組の上山人形 傀儡師は、人形遣いが人形を操る二重構造です。

    傀儡師(かいらいし)とは、江戸時代の大道芸人で、諸国をまわり、街頭で子供たちを集めて、首にかけた箱に手を突っ込んで人形を動かします。 田中組の傀儡師が披露する演目は3つ。

    1吉野山(唐子人形)

    2舟弁慶(義経 弁慶 船頭)

    3山猫いたち

    3つの中で、最後の山猫いたちは、観客に山猫が飛び出すところが面白いところ。

    ……………………

    「山猫いたち」歌詞

    子供衆 子供衆

    悪い事せまいぞやー

    悪い事をしたものは

    山猫にかましよ

    けものにかましよ

    スッペラポンノポン

    ……………………

    江戸時代に、子供たちを集めて傀儡師が人形遣いを披露していた街角で、子供たちが湧く様子が目に浮かびます。

    調査によれば、田中組の上山人形の傀儡師は、1吉野山 3山猫いたち の言い回しなどから、江戸時代初期の傀儡師を正確に伝えているものと考えられています。

    「舟弁慶」は、落ち武者の亡霊(平知盛)が海に現れ、船に乗った義経と弁慶が追い払うというストーリー。

    落ち武者が槍を回転させるところや、小さな船頭が前後に体を揺らして一生懸命船をこぐ様子や、弁慶が数珠を手に持ち必死に念仏を唱える様子を見ると、ち密な人形の構造に驚きます。

    西組花王車・上山人形「桜花唐子遊び」

    2体の唐子が、桜につけられた空中ブランコを雲梯のように手足を使って渡っていきます。

     

    からくりは、浜、秋葉社、尾張三社、神前神社などで奉納されます。

    テレビのない江戸時代には、大道芸、芝居、祭のカラクリなどは民衆にとっての一大エンターテインメント。

    しかし娯楽の多い今でもカラクリを楽しみに見ている方は多いように思います。ワッと盛り上がっていた様子を見受けました。

    古い文化でも今も大衆の楽しみとして伝えられている、生きた文化。見たい人と、伝えようと思う人の双方の想いが一致しなければきっとここまで長く続かないので、凄いことだなと思うのです。

  • 亀崎の伝統食「串あさり」

    亀崎の伝統食「串あさり」

    串アサリを食べたことがありますか?

    半田市の亀崎地区では古くから春の伝統食として「串アサリ」を作り、特に祭の頃のごちそうとして食べてきました。

     

    最近ではアサリの不漁や高騰が続き、完成した状態の串アサリの既製品はめったに手に入れることができないという、一層ごちそう感が高まっている串アサリ。

    串アサリとは

    串アサリとは、アサリの身を剥き、串に刺して1昼夜干した珍味です。

    このように書くと単純な食べ物に思えますが、干すと縮むので大きな身を手に入れる方がよいし、アサリの身を剥くのがなんといっても難しいのです。

    炙って食べるのもよし、6粒ついた串アサリを半分に折って天ぷらにしてもよし、どちらも人気の食べ方です。

    潮干祭が近くなると、亀崎周辺のスーパーで串アサリが総菜コーナーに並ぶことがありますが、かなりレア。出会えてもとても高級でびっくりする値段だと思います。

     

    食べたことのある方にとっては、作るところを見ないうちは、「美味しいな」「春のごちそうだな」と思うくらいかもしれません。

    ところが、作るところを見たり、自分でやってみると、驚くほどに難しいのです。

    しかし、後ほど紹介しますがベテランはいとも簡単に作るのです。すべての方が尊敬の念を抱くと思います。食べ始めたら止まらない美味しさを知り、作ることの難しさを知り、その価値が倍増する串アサリ、その歴史はかなり古いのです。

     

    串アサリの歴史

    昭和5~6年には、亀崎の料理屋みづほ(山口増次郎氏)が特別に調製し、宮内庁を通して昭和天皇に献上したこともあったという記録があります。

    『半田市誌 地区誌編亀崎地区』より

     

    亀崎地区は、海に面した漁師町であり、江戸時代には酒などを江戸へ一晩で運んだという廻船業が発達した船乗りの町でもあります。神前神社(県社)を中心とした町は、魚屋を始めとしたさまざまな商店が並んだ通りが栄えました。

    亀崎の海底はヘドロ層であるためアサリは沸かないのですが、アサリの稚貝(たねこ)が大きく育成するのに適しているので、明治初期からアサリの養殖に力を入れ、稚貝(たねこ)を市外から買い入れていました。北浦の浜に5月中旬にまき、翌年12月から4月頃にかけて成貝を採っていました。

     

    しかし昭和23年、北浦一帯が農地として干拓されてからは神前神社前の浜一帯にまくようになった。採ったアサリはそのまま個人売り(一升売り)するか、生剥きにした串アサリにしたりして魚市場に出していました。

     

    串アサリは仲買人の手を通して、東京・名古屋・岐阜方面に送り出されました。

    串アサリは1本の串に10個のアサリをつけ、1日~2日天日干しし、10本を一組にして、これを縦に6段積んで合計60本ずつ縛っていました。一縛りの大きさは幅20cm×縦30cmくらいになる。縄は紺色の布で飾りをつけ、見た目にも大変美しいものであったそうです。これは「カバン」と呼ばれました。鞄(かばん)に似ていたところからそう呼ばれたそうです。

    ただ、これは手間のかかる割に金にならないので、次第にすたれて昭和15年頃にはなくなったそうです。カバンが衰えてからは1本に6個のアサリを刺し、これを5つずつ積んだものを2つ併せて10本とし、それを1つの単位として売るようになりました。

     

    近年は、亀崎の浜でアサリはとっていません。数年前に、地元企業によって、串アサリをお土産化がされました。その生産には三河方面の大き目のアサリを使っています。作業は地元の大ベテランの皆さんが関わって、潮干祭での販売に向けて、毎日のように作業を進めます。

    近年はアサリの不漁が続いていて、商品化できない年もあって、来訪者向けに潮干祭の日だけ、「まちかどサロンかめとも」前で販売されることがあります。本当に串アサリが貴重になってきていますね。

     

    串アサリの作り方

    そんな串アサリは、どのような手順でつくるのでしょうか?

    串アサリは、潮干祭に合わせて各家庭で山のように作られる伝統食ですが、だんだん技術の伝承が難しくなってきています。

    そこで、亀崎の文化団体ルート21の皆さんが、亀崎の伝統食「串あさり」の作り方を子どもたちに伝えようと、毎年3月下旬に児童センターで講習会を開いてくれています。

    そこで配付してくださるレシピをここでも紹介させてもらいますので、ぜひ家庭で作ってみてほしいです。

     

     

    分かりやすくて、簡単にできそうなのですが…修行あるのみです。

    講習会は、ベテランのお姉さま方の素早い動きを見本にして、参加者の親子が真似してやってみるというものです。

     

    みなさん口々に「難しい!」と言います。私も何度か参加させてもらって実際にやってみたことはありますが、本当に剥くのが難しいのです。そもそも、もたもたしてしまううちに、貝が口を閉ざしてしまって、手刀自体貝へ入れることも難しいのです。

    サッと手に取ったら、スッと刀の背を指で押して、押し開ける。刀の先ではなく刀は貝と平行の向きというのがポイントです。

    貝の口があいたら、刀を身と貝ガラの間に入れてくるっと1回転。

     

    文字で書くと簡単ですが、本当に難しいのです。いとも簡単に剥くベテランへの尊敬のまなざし・・・。

    ベテランは動きが素早いので、貝も「アレ?」っという間に剥かれてしまって、身はキズがつかないので、ホセ(串)に刺しても美しい。

    自分でやってみて初めてそのすごさが分かるという、ありがたい講習です。

    ベテランさんの話では、「最初の10年は串刺し」「30年剥いてやっと一人前」という話も。これは本当に亀崎の女性による職人技であり無形文化財レベルの技だと思うのですが、今の時代ではたくさんの人に作ったり食べたりしてもらって楽しんでもらうことが大事だと思うので、気軽にトライしてみてほしいと思います。

     

    さて、串あさりは1昼夜干して、あぶったり天ぷらにして食べます。この講習後には同じく伝統食の「味噌焼き」も披露してくれます。

     

     

    貝の皿の上で、油揚げや菜の花を、味噌や酒やみりんで濃いめに味をつけたもの。白いご飯にのせて食べると、ご飯が進みます。

     

    ルート21の文化伝承活動

    亀崎地区は海に面した漁師町として、また江戸時代に江戸まで酒などを運んで行き来する海運業が発達した船乗りの町として栄えました。5輌の山車が海に入る5月3・4日の潮干祭には多くの人が訪れます。

    「潮干祭」の画像検索結果

    しかし、数年前までは“祭以外は人がいない”と言われるほど、普段は閑散とした商店街でした。

    このままではいけないと立ち上がったルート21の約10名の皆さんは、子どもたちや若い親へ亀崎の文化を伝承しようと、さまざまな取り組みを楽しみながら続けています。

     

    何もないと言われた亀崎に坂がある、坂に名前を付けよう、休憩できる井戸を飾ろう、ベンチを作ろう、俳句を作ろう、といった活動を行ってきて、串アサリ作りの講習会もその一つです。根気よく続けてきた活動に、他県から視察が来るほどです。

    子どもたちへアプローチすることで、親や祖父母も一緒に参加してくれるということを重視して活動されています。今ではルート21だけでなく、様々な方があつまり、お店の出店、ほかの団体や大学生の参入にもつながり、この数年で本当に亀崎の町を行きかう若者が増えつつあります。若い人が町に興味を持っているという町は、本当に輝いて見えます。

     

    続けることの大切さ、子どもたちへの文化伝承の大切さ、楽しみながら町を彩っていくことの大切さ、所属を超えて一緒に何かを取り組むことのおもしろさ。こういった活動に私も、亀崎へ遊びに行くたびにたくさんの感動を教えていただいて、ルート21の皆さんは本当に尊敬しています。恐れ多いですが、その尊敬は今のこのhanpakuの活動のパワー源になっています。“難しい歴史文化を文字で伝えるよりも、目に見える今の景色やモノから楽しんで好きになってもらいたい”です。

     

    講習会の様子(動画)

    こちらの映像は、亀崎の文化団体ルート21による「亀崎 伝統の味を楽しむ集い『串アサリづくり』」の、2014年の講習会時の様子をおさめたものです。

    ベテランの手早い動きをぜひ瞬きせずに動画でご覧いただきたいです。↑のレジュメ通りにやっているのでしょうが、なんともこの通りに真似はできません。スロー再生したいくらい素早いです。

    でも、子どもたちも楽しそうに体験していたり、ベテランのお姉さま方の活き活きとした様子があったり、地域の方との世代間交流も素敵です。

     

     

    cookpadでも紹介されています

    串アサリづくりのレシピはcookpadでも紹介されています。自分で作って自分で食べる分には、下手でも充分美味しいですので、今のアサリシーズンにぜひ作ってみてください。

    Cpicon 亀崎の伝統食 串あさり by ルート21_半田亀崎

     

     

     

     

  • 祭でよく見る三番叟って?

    祭でよく見る三番叟って?

    3月の乙川祭を皮切りに、半田市内で春の祭礼が行われています。山車を伴う祭礼では、神社などで人形による三番叟や、上半田では小さな男の子による三番叟が奉納されます。

    三番叟とは

    三番叟の起源は、平安時代頃まで遡ります。

    古くからあった老人の面を付けた神が踊り語り祝福を与える神聖な芸能を「猿能楽」として留めたものを「式三番」といいます。

    式三番とは

    鎌倉時代頃に成立した「猿能楽」は、平安時代頃までの呪師の芸を継承したものと言われています。
    もともとは五穀豊穣を祈り、農村行事として行われていたもの。

    「式三番」の登場人物

    1.千歳(若者の象徴)
    2.翁(集落の長の象徴)
    3.三番叟(農民の象徴)

    これが三番叟の元なんです。三番叟の衣装を見ていると神官のような衣装なので、農民の象徴と言われると少し不思議ですよね。

    式三番の流れ

    1.千歳が露払いの役を担って舞う
    2.翁が天下泰平を祈って舞う
    3.三番叟が五穀豊穣を祈って舞う(足拍子で地固めを思わせたり、種まきを思わせたりする所作をする)

     

    五穀豊穣を願う相手は土地の神様。現代でも家を建てる時に地鎮祭を行いますがその時は神社から神官がきてくれます。そう思うと神官の衣装なのも納得できます。

    なぜ「式三番」というの?

    「式三番」という名称は、
    “例式の3番の演目”という意味で、
    「父尉」(後世に省略された)、「翁」、「三番猿楽」の 3演目を指すものです。
    三番猿楽がその後「三番叟」になったと思われます。

     

    なぜ「式三番」から三番叟が山車祭礼に?

    式三番はとにかくおめでたい舞い。

    後世になり、式三番の中から、能では翁の舞を主に取り入れたり、歌舞伎では三番叟の舞を主に取り入れて正月の講演で上演されるようになりました。その演者は身を清めなければならないほど、かつてより神聖な舞いだったということが伝えられています。

    「式三番」の画像検索結果

    「式三番」は猿能楽から「能」へ発展し、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃、民俗芸能へ派生しました。

     

    全国の祭礼で山車人形が使用されるようになったのは平安時代と言われますが、
    岩滑八幡社の祭礼で嘉永五年(1852)の記録でも三番叟が行われていた記録があるなど、
    詳細な記録はないものの、半田市内でも三番叟が江戸時代末期に行われていたことが確認できます。

     

    ではなぜ、民俗芸能のひとつとして、式三番の中の「三番叟」が、五穀豊穣を願う春の祭に取り入れられ、神社への奉納というおめでたい場で舞われるようになったのでしょうか?

     

    考えられる要素としては、

    ・戦国時代が終わって安定した政権下で、民俗芸能が発展した

    ・山車文化の発達

    ・江戸時代に陸運や海運が発達した、組織制度が画一的になったことで情報交換が多くなった(信仰や芸能の情報が全国で広まった)

    ・古くからの農耕文化(五穀豊穣を願う)

    などの、さまざまな要素が結びついて、今のような三番叟が伝わっていると考えられます。

     

    上半田の子供三番叟

    上半田の住吉神社の祭礼「ちんとろ祭」では、社前の宮池で2艘の「ちんとろ船(まきわら船)」が浮かべられます。

    その祭礼行事の中で、船の上の前部で、子どもによる三番叟が舞われます。

    ちなみに、「ちんとろ船」の“ちんとろ”というのは、船の囃子がこのように聞こえることからそう呼ばれると言います。

    上半田のちんとろ船は、北組「住吉丸」、南組「入宮丸」と呼ばれます。
    愛知県津島市にある津島神社で夏に行われる天王祭の「まきわら船」を伝えたものといわれます。

    「津島 天王祭」の画像検索結果

    ↑津島天王祭

     

    1年の日をあらわす365個のちょうちんで半円形をつくり、頂点には1年の月をあらわす12個の提灯を連ねます。

    津島神社から上半田への伝承時期は不明ですが、天王信仰とともに広まったものと考えられています。

    天王信仰とは

    天王信仰とは、疫病よけを中心とした牛頭天王 (ごずてんのう) に対する信仰です。

    祇園信仰といえば京都の祇園祭。その起源は、疫病の流行により朝廷が平安時代の863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行ったことに遡ります。

    「祇園祭」の画像検索結果

    ↑祇園祭

     

    平安京八坂の祇園社では、近くに祀られていた仏教の守護神である牛頭天王と、御霊信仰 (ごりょうしんこう) と習合して疫病よけの信仰となり、その風習が全国にも知られるようになりました。

    東海地方ではスサノオ・牛頭天王は「お天王さま」と呼ばれています。津島神社より勧請を受けた神社は、東海地方を中心に日本全国に約3千社あります。その多くはかつては「牛頭天王社」「天王社」といっていましたが、明治時代の神仏分離の際、総本社の津島牛頭天王社(津島天王社)が津島神社に改称したことから、同名の「津島神社」に改称しました。

    半田市でも津島神社がいくつかありますが、愛称で「お天王さん」と呼ばれているところがあります。

    ちなみに、住吉のちんとろ祭の元である津島天王祭では、江戸時代初期まで三番叟とは異なる稚児舞を行っていたようですが、現在では残っていません。そのため、上半田の子供三番叟の伝わった詳しい経緯は分かっていません。

     

    子供三番叟はどんな舞?

    住吉神社の祭礼で子供三番叟の舞をするのは、かつては3~5歳の男の子となっていましたが、昭和30年代からは小学校1年生に上がる前後の2年間、三番叟を演じることになっています。

    舞台用の豪華な衣装の費用はかつては親の自前で100万円ともいわれる費用で用意されたといいますが、今では組で準備しています。

     

    2019年も夜、ちんとろ祭の宵宮で子供三番叟が奉納されました。

    真っ暗になった午後7時に、大人の肩に担がれた三番叟の子供は、住吉神社で拝殿にあがり祈祷したあと、宮池に浮かんだ船に乗ります。

     

    そして船を岸につけて、北組、南組の順で舞います。2組の三番叟には大きな違いがあります。

     

    北組が男三番叟で力強い舞

     

     

    南組が女三番叟で優しい舞。

     

    両組の違いは、化粧(きつい/すっきり)や、烏帽子(太陽/月)にも表れています。

     

    どちらもとてもかわいらしく、見ている方は口々に「かわいいねえ」と漏らしていました。

    南組の男の子は、4月13日に5歳のお誕生日を迎えたということで、なんとも御目出度い三番叟となりました。観客皆でハッピーバースデーを歌いました。これまたほっこり。

    岸辺に桜の咲く宮池に提灯が反射して、のんびりと行きかう様子もまた風流です。

     

    三番叟山車人形

     

    さて、人間が三番叟を踊るのは半田市では上半田のみ。他は山車で人形の三番叟を奉納します。

    半田市内の山車が曳かれる祭礼では、「宮本が三番叟を奉納する」と言われます。

     

    宮本(みやもと)とは、神社のおひざ元、神社の神様を警固する山車の、リーダーといったところでしょうか。奉納や並び順でも順番でも1番というようになります。

    人形遣いの三番叟を行うのはほとんどが宮本の車で、半田市内では現在11輌の山車において三番叟が演じられています。

    おもしろいのでまた別の機会に紹介したいと思いますが、詳細に分けると、人形の扱い方は2系統あり、伝播の順番も追うことができます。

     


    山車の正面に突き出た前壇(まえだん、前棚壇箱とも)で、三番叟を操ります。

     

    ▽本板山・三番叟

    人形三番叟には「アカンベ」と舌を出すものがあり、これは歌舞伎の「舌出し三番叟」や、名古屋城下で人気だったアカンベをするからくりの影響を受けているといわれます。

     

    とってもかわいいです。

    舌出し三番叟とは

    「舌出し三番叟」は、大坂の役者・三代目中村歌右衛門が、江戸での興行を終えて大阪へ帰る際の御名残狂言として初演されました。

    元をたどれば、歌舞伎創生期に初代中村勘三郎が演じた三番叟を復興したものを伝えられたといいます。舌出しの所作は大好評を博し、劇場は朝から人で溢れたと言います。

    これを真似した人形の三番叟があるのは、民衆からも人気があったという背景が考えられます。お茶目な感じがかわいらしくて、人々が喜ぶこと間違いないですから。

     

    ______________________________________________

    三番叟は、踊りとともに囃子や掛け声もおもしろいところです。

    昔の言葉で、難しそうなことを言っているように聞こえますが、よく聞いているととても簡単な言葉で、民衆に分かりやすい言葉で伝えられているのだと思います。

    一番三番叟にとって特徴を表している「めでたい」「めでたき」という単語が聴こえてきたりしますので、耳を澄ませて歌も聞いてみてくださいね。

     

  • 半田の元日の様子

    半田の元日の様子

    今では新しい年の1月1日は、「午前0時を境に始まる」という方が一般的ですが、かつては大晦日の夜と新年の朝は連なっているもので、はっきりとした区切りはありませんでした。

    もともと新しい一日は日没から始まると考えられていたので、新しい年も12月31日の日暮れから始まると考えられてきました。

     

    前回、昭和の終わりころの半田の大晦日の様子を紹介しましたが、新年明けて元日の半田の様子はどうだったのでしょうか?

     

    半田の元日の様子

    昭和の暮らしを記録し、平成元年に発行された『新修 半田市誌』によれば、半田市内の元日の様子は、

    • 元旦の朝早く、家の主人あるいは若い男が、井戸から初水を手おけにくみ、神棚に供えた。これを「若水を汲む」といい、この水で顔を洗ったり、雑煮を作ったりした。板山地区では、大晦日に井戸水を茶碗へくんで庭先に供えておき、元旦に一口ずつ飲んだ。
    • 初日の出を拝んで、氏神さまへ初詣をしたあと、主婦が神棚と仏壇に明かりをあげて、雑煮を供えておく。家族で集まって新年のあいさつを交わし、雑煮を食べる。
    • 元日の午後~3日までは、親類・知人の家を年始の挨拶に訪れる。昔は、紋付・羽織・袴の正装で訪れ、名刺を置いてきた。女の人が最初に顔を出すと、その家は1年中良くないことが起こると言われた。
    • 正月3日間は「せつよび」といって、親類同士がお互いにもてなしあった。
    • 正月の食事は、豆・たつくり・かずのこ・こぶまき・あらめ(あらめという海藻の中にフナを巻き込んだもの)・かまぼこ などが多い。あらめ
      とくに、農家では、豆、かずのこ、たつくりは、「マメで、かずかず田を作る」と言い伝えられる。
    • また、元日や正月3日間は、福の神を掃き出さないように、ホウキを持たないことになっている。
    • 戦前には正月3日間、横須賀・阿久比から来た万歳(まんざい)が家々を回り、鶴亀・七福神の舞いや商売繁盛の祝い言葉などをうたい、祝儀をもらっていった。
      岩滑・岩滑新田からも昭和10年頃まで角付万歳に出かけていた。万歳
    • 半田・乙川地区などでは、元日未明から、近くの村の12の神社を巡拝する「十二社巡り」が昭和の終わりころまで行われていた。

     

    現代では、井戸がある家はかなり少ないので、「若水を汲む」という行為を見ることがなくなっているでしょう。

    昭和の半田の元日の様子、現代の皆さんの家と共通するものはありますか?

    お正月、おじいちゃんおばあちゃんの家で、昔の正月の過ごし方、どんな遊びをしたのか、ぜひ聞いてみてはいかがでしょうか。

  • 大晦日の半田を見てみよう

    大晦日の半田を見てみよう

    「なんでこんな寒い中で大掃除するんだろ?」

    と、思ったことがありませんか?

     

    「夏にやればいいのに」

    「でもなんとなく、新年を迎えるのに汚れを落として気持ちよくした方がいいもんね」

    多くの人が、何となく古い日本の文化としてあるんだろうなと思っていても、水をたくさん使う大掃除を寒い年末にやる理由を知らなかったりするかもしれません。

     

    日本人が昔から12月に大掃除をする理由は、「歳神(としがみ)さまを迎えるため」です。

     

    大掃除がおわったら松飾を飾り、松飾を目印にして歳神さまが家に来てくれるというのです。

     

    歳神とは、新年の神様。

    1年間のすすを払い、歳神さまを迎えることを、大掃除と言ってきたのです。つまり、年内に汚れを落としてすっきりすることが本来の目的ではないということですね。

     

    大掃除の歴史は古い

    日本では、平安時代頃、年末の宮中行事として「煤払い(すすはらい)」が行われたことが、現代の大掃除につながっているそうです。

    江戸時代、江戸城では、今のように12月末ではなく、12月13日に煤払いをしていたようです。

    12月13日は正月事始め(しょうがつごとはじめ)で、正月を迎える準備を始める日です。

    旧暦の12月13日は、東洋占星術の吉凶の基準となる二十八宿の鬼宿日という日にあたり、最高に縁起がいい日とされています。

    そんな日は、新年を迎える準備を始めるのに相応しい吉日だろう、ということで、鬼宿日にすす払いが行なわれるようになったそうです。

    他にも元旦のお雑煮を作るための薪を拾いに行ったり、門松飾りの竹や松の枝を取りに行ったりする縁起の良い日だったようです。

    現代のライフスタイルの中では12月13日にこだわらず、年末の休日に行うようになりました。

     

    半田市の大晦日

    では、昔の半田市の大晦日は、どうだったんでしょうか?

    昭和の暮らしを記録し、平成元年に発行された『新修 半田市誌』によれば、半田市内の大晦日の様子は、

     

    • 餅つきは、12月25日~30日までに行った。
      ただし、29日は「九(苦)餅をつく」といって嫌われ、12月30日に餅をつく家が多かった。
    • 12月31日は、仕事を休んで新年を迎える準備をする。「松迎え」(山へ行って門松の材料を取ってきて)して、玄関か門の左右両側に一対立てる。ただし、忌中の場合は立てない。
    • 神棚へは鏡餅・しめ縄・氏神様のお札を祀る。
    • 床の間には、三方台にシダを敷いて、米を置いて、その上に鏡餅と、ダイダイ(またはミカン)を供える。
    • 井戸・かまど・風呂・物置など、農家では、農具・倉庫・作業場などにも「しめ縄」を輪に結んで供えたり、鏡餅を供えたりした。
    • 板山の大湯では、大晦日に一升マスに米を入れて、上に鏡餅一組をのせて、井戸へ供えておき、元旦の朝早く下げる。上の鏡餅は月、下の鏡餅は太陽を表す。天地の神に備えた。
    • 板山、乙川の古くからある家では、家にあるだけの「おかけじ」(掛け軸)をデイ(広間)やナンド(納戸)に飾って、鏡餅や神酒を供え、家族でお参りした。
    • 神社では、門松と大しめ縄を作って氏神様に飾る。
      夜はおこもりして、夜を明かす人もあった。
      境内でかがり火をたき、神札の焼納をする。
      また、厄年の人たちが参拝者に甘酒などをふるまっている。
    • 昔は満年齢ではなく、数え年といって、年齢のカウントは正月の数だった。
      大晦日は、1つ年を取る記念として、尾頭付きの魚と米のご飯を炊いて祝った。
      大正から昭和になって年越しそばを食べる家が多くなってきた。

    大掃除そのものについては、細かな記事はなく、正月の準備が多いです。

     

    半田市の昭和の大晦日の様子は、神社は今と大きくは変わっていませんが、家での様子はわりと変わったのではないでしょうか。

    “餅をつく”

    “家の門に門松を立てる”

    “家にあるだけのおかけじ(掛け軸)をかける”

    “大晦日に尾頭付きの魚とご飯を食べる”

    核家族化や、全国転勤が普通になって、ライフスタイルが多様化した現代では、個人宅でここまでの年末行事を行う家はかなりレアになってきました。

    神社、旧家の多いエリア、公民館などで、門松や新しいしめ縄を見ることができるくらいになってきたように思います。

    この年末、近所や市内で、門松や新しいしめ縄をどれくらいの家が飾っているか、ぜひ気にして見てください。

     

  • 中町にあるお堂に、歴史の証人あり。

    中町にあるお堂に、歴史の証人あり。

    半田市の中町に、中利という大きな味噌・たまり工場がありますが、その近くの道路が交わるところにひっそりと建つお堂があります。

    このお堂、調べていくととても深くて、大切な歴史の証人だったんです。

    1.お堂に祀られているのは誰?

    昔ファミマだったところ(現在は事務所)と中利の工場の間の道を南に入ったところと、ドラッグセイムスから東に入る細い道の交わるあたり。

    道路が交わるところを、昔から「辻(つじ)」といいますが、こういった場所は魔除けのために「辻地蔵」などが置かれる風習が全国的にあります。長野の道祖神(どうそじん)が有名な例。

    悪霊は道路や川を伝って村へ入ってくると考えられているため、悪いものが村へ入ってこないような仕掛けとしてパワーのある何かを祀る風習が日本にはあります。

    という意味で、立地的にはお地蔵さんっぽいです。このお堂の中にはお地蔵さんがいるんでしょうか?

     

    (1)お堂の様子

    これがお堂の正面です。小さいながらも、しっかりした立派なお堂です。

     

    簡単な回転カギがあるだけなので、扉を開けてお参りすることができます。

    お花や水が備えられていて、日常的に近所の方々がお世話していることがうかがえます。

    実際に、しばらくウロウロと周りを見ていたら、ご近所の方がお参りに来られました。

     

    ちょうちんの裏側には、寄進されたのか、平成10年に「北講」に属する方の名があります。

    「北講」という、この近所の方々のつくる信仰の単位グループ(講)がお世話しているのですね。北講の、北、ってなんでしょう?

     

    ちなみに、『半田の石造物』(半田市教育委員会、1972年)という冊子によれば、「手に損傷があるのは、ある日のこと、親子を荷台に乗せた牛車が狂奔し、この石仏にぶつかって止まった。そのために牛車の親子は無事であったと、土地の人の話であった。その時の損傷である。」と書かれています。

    ちょうちんに「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」とあります。

    むむ?お地蔵さんではなく、阿弥陀如来?

     

    そう。サイズ的に小さいので、“お地蔵さん”と言ってしまいそうですが、このお堂の中にいた方は、確かにお地蔵さんではなく阿弥陀如来という“仏さま”の像でした。

    阿弥陀如来が立っている像なので、美術的な正式名称でいうと「阿弥陀如来立像」ということになります。

     

    (2)お地蔵さんと仏像ってちがうの?

    お地蔵さんの定義って、知っているようで知る機会がないですよね。

    町の中にいる、小さな石でできた守ってくれてる像はすべて“お地蔵さん”だと思っている人が大半です。それは愛称として人々がそう呼んできた事実があるからです。

     

    「お地蔵さんと仏像って違うの?」という疑問。答えとしては、一応違う、です。

     

     

    ここからは半田からちょっと離れますが、知っておくと半田市内の仏さんを面白く見ることができる豆知識です!

     

    お地蔵さんと阿弥陀さんは別人というか、ランクが違います。

    仏像とは、仏の像のこと。

    “仏”には狭い意味と、広い意味があって、狭い意味では「如来」を指します。「如来」は、いわゆるお釈迦様。悟りをひらいた最終形態。

    お釈迦様になったインドのブッタ(ゴータマ・シッタールダ)は、修行を重ねて、いくつもの段階を経て悟り(最終形態)に至りました。

    悟りを開くまでのもがき苦しんだ途中の段階も信仰対象になっていて、偶像になっています。

     

    途中段階というのが、

    普通の人間→天(てん)→明王(みょうおう)→菩薩(ぼさつ)→如来(にょらい)

    という経緯です。

     

    これが信仰対象の像として仏師に作られるとき、こういう見た目の違いを持たせるようになりました。

    詳しく知るととてもおもしろいんですが、簡単に言うと、人間から、見た目も中身も、どんどん人間離れした超越した存在へと変化していくんです。

     

    ▼如来

    「阿弥陀如来」の画像検索結果平等院鳳凰堂 阿弥陀如来座像

    最終形態の如来は、すべてを超越しているので、感情の揺らぎもなく安定していて、欲もないので服は最低限の布一枚でアクセサリーもつけません。

     

    ▼菩薩

    「十一面観音菩薩 長谷寺」の画像検索結果長谷寺 十一面観音菩薩立像

    その一歩前の菩薩は、悟りまであとちょっとの段階なのですが、人間っぽさも残っているのでアクセサリーをつけています(欲がある感じ)。

     

    実は、お地蔵さんは正式名称が地蔵菩薩で、悟りを開いた如来の一歩前の段階の人間です。

    「地蔵菩薩 東大寺」の画像検索結果東大寺 地蔵菩薩立像

    悟りを開いた如来がいなくなった人間の世界は、現在56億7000万年先の未来に人間の世界へ助けに来てくる予定っていうすごい設定なのですが、ものすごい先のことなので人々は不安です。そこで、如来がいない間の世の中を守ってくれるのが地蔵菩薩です。

    しかも、お地蔵さんは表の顔、うらの顔は閻魔大王という、兼業、1人2役な不思議な存在です。

    「引接寺 閻魔」の画像検索結果千本えんま堂 閻魔像

    閻魔大王は人間の生活をすべてお見通しですから、お地蔵さんもお見通しということになります。だからこそ、色々な生活エリアで私たちを見守ってくれる存在になっているのです。

    このようにして、一番身近な存在なお地蔵さんの存在があるので、たとえ中身が如来であっても、知らぬうちに人々は“お地蔵さん”と呼んできたんでしょう。

    阿弥陀如来のことをお地蔵さんと呼ぶことは、仏教的には間違った認識ではあるのですが、それが文化なのです。

    おそらく、多くの民衆が全員、仏教の根本を理解する機会はなく、こういった像をきっかけに村や家の安全を願うというシンプルな付き合いだったのでしょう。今も似たようなものです。このよく分からないあいまいな感じが、日本の風習そのもの。

     

    実際に、『半田市誌(文化財編)』には半田市の中の石仏の種類の集計が載っていますが、地蔵がほとんどで、如来は少ないです。こうなると、石仏=地蔵となってしまうのも頷けます。

        造立時期
    如来 52体 江戸、明治、昭和
    地蔵 672体 明治~昭和が大半
    観音 79体 江戸、明治、昭和
    弘法大師 29体 江戸、明治、昭和
    行者 11体 江戸、明治、昭和
    不動 5体 江戸、明治、昭和
    庚申 9体 江戸、明治、昭和
    計 867体  

     

    ▼明王

    「不動明王 醍醐寺」の画像検索結果醍醐寺 不動明王座像

    菩薩の前の段階の「明王」は、自分も修行途中だし、他人にも厳しい感じです。なんだか子育て中の私も子どもにこんな顔をして怒っていますが、子どもに育てられてる母親もまさに人生の修行中という感じ(笑)

     

    ▼天

    「十二神将 薬師寺」の画像検索結果新薬師寺 十二神将

    その前の「天」は、まだ得意なジャンルだけに悟りを開いているような感じで、見習いという感じで如来を守ったり、魔除け役の取り巻きです。

    いろんなキャラクターがいっぱいいて可愛いのですが、身近なところでいうと、十二支の守り神(十二神将=十二人の天)がついたお守りを買ったことがある方もいるのではないでしょうか?「戌年の人、お守りしますよ!」という一部分な感じが、最終形態の如来と比べて、青いというか若い感じがしますよね。

     

    詳しく分けていくとこの4分類に当てはまらないものもありますが、大方はこんな感じ。

    もっと詳しく見ていくと、種類が多いし、手の形もメッセージがあるので、勉強して仏像を見ると、とても楽しいものです。

     

    2.史料に残るお堂の存在

     (1)『半田市内地蔵巡り案内』半田市教育委員会/編、平成12(2000)年

    半田市内にあるお地蔵さんを記録した本の中に、半田地区として、一番左側に本日紹介している中町にある阿弥陀如来立像の祀られたお堂のことが書かれています。

    ↓

    「中町2の83 赤坂阿弥陀仏 立派な堂内に安置。地元では地蔵と呼ばれているが、阿弥陀如来像と思われる。」とのこと。

    確かにその通りでした。

    ところで、このお堂のあるところが、赤坂という場所なのでしょうか?

     

    (2)『知多郡西成岩社仏控書上下帳』明治2(1872)年

    (『半田市誌(文化財編)』半田市、昭和52(1977)年に収録)

    西成岩につたわる村方文書のなかに、明治2年に、当時このエリアを治めていた柳原役所の代官に差し出した石仏調べの書の写しが残っています。

    おそらく、明治維新で、神仏習合令に伴う廃仏毀釈(仏教を排斥し寺などを壊すこと)の際の基礎資料として、お役所から村々に調査があったものでしょう。その後、壊されていないってことは、うまいことやったんだと思います。よかった!

     

    さて、その村方文書の中に、こんな記載があります。

    「北新居下細口 1、石仏地蔵堂 長4尺 横4尺 瓦ぶき 1宇」

     

    北新居 下細口(きたあらい しもほそぐち)ってどこ?

    と思いますが、今は全く地名には残っていません。

    が、NTT電柱に掲載されている字名プレートに「下細口」は残っています。

    この電柱があるエリアは、まさに今日紹介したお堂の近くです。

    昭和13年発行の半田市の地図には、古い地名として「下細口」という字名が載っているのですが、その地図を基に今の地図に重ねてみると、ここが「下細口」です。

    (c)hanpaku 国土地理院地図と昭和13年地図を基に作図 

     

    下細口は地図に残っていますが、その前にあった「北新居」については、江戸時代の古地図や、村方文書を探してみましたが、確認できませんでした。

    ところが、このお堂の基礎に使われている石柱をよくよく見てみると・・・何か文字が彫られていて・・・

    縦書きの物を横にして使われているので、写真を回転して読んでみると・・・

     

     北新居村

    橋本

    繁治良

     

    このお堂建設にあたって寄進した方の名前でしょうか。ここに「北新居村」と住所が彫られています。今では北新居村の範囲が分かりませんが、村方文書とこの石柱を組み合わせて推理すると、まさにこの阿弥陀如来のお堂の周辺が、北新居村下細口というエリアだということになります。

     

    初めに村方文書のことを知らずにこの台座の文字を見つけたときは、乙川にある新居の北に北新居村というのがあったのかな?と悩んでいました。

    それとも、ネット検索すると徳島県に「北新居(きたにい)村」があるので、まさかそこから運ばれた石を転用したのか?とも邪推していました。

     

    しかし村方文書のおかげで、一番シンプルで説得力のある、「お堂の周りが北新居村だった」という、ご近所説が分かってものすごくうれしいです(笑)

     

    そうすると、先ほど思った疑問、「北講」の北ってなに?の答えは、「北新居村」の北という考えがシンプルです。

     

     

    もう一度転記すると、村方文書は

    「北新居下細口 1、石仏地蔵堂 長4尺 横4尺 瓦ぶき 1宇」

     

    こんな記載でした。4尺は今でいう約1.2m、確かに今もそれぐらいです。たしかに瓦ぶきです。

     

    (3)『半田の伝説』小栗久夫/編、昭和49(1974)年

    もう一つ、この阿弥陀如来のことを伝える文献があります。半田市内の言い伝えをまとめた『半田の伝説』には、このお堂ができた時期が書かれています。

     

    【半田】福徳を施した赤坂地蔵

    半田村の『山の神様』の南に杉浦半蔵という人が住んでいた。

    ある晩一人の旅憎がその家を訪ねて、一夜の宿を乞うたので心よく承知した。一夜だけ泊めてあげたのが縁で、ついにその旅僧は半年余も厄介になってしまった。旅僧はある日一体の石仏をどこからかもって来て、朝な夕なに礼拝をしていたが、いよいよここを去ることになったとき、その石仏にわずかの金を添えて半蔵さんにその世話を頼むと何処へともなく立ち去ってしまった。

    そののち半蔵さんは亡くなってしまったが、ある夜のこと、息子の夢枕に、その石仏が現われ、『人足繁き街中に祭ってくれれば延命福徳を施す』というお告げがあった。

    そこでさっそく地元の有力者たちと相談し、赤坂というところに十坪ほどの土地を求めて、ここにこの地蔵さんをお祭り申しあげた。

    そののちは道行く人だもの中にも礼拝する人が多くなった。やがて誰ともなく赤坂地蔵と呼ぶようになり、遠くからお参りに来る人も次第に増す一方であった。

    天明元年(1781年)の春には御堂を建ててその堂内に納めてお祭りもした。寛政五年(1793年)に千賀志摩守が出陣される折にはここで休息して、堂前で福徳を祈り大戦勝をしたという話が今に残されている。

    伝説が今も生きてる地蔵尊

    最後の川柳が風流ですよね。

     

    伝説によれば、このお堂は天明元(1781)年、今から238年前に建てられたもの。これについては、確かにお堂の石柱にその年月が刻まれています。

    天明元年七月二十六日

    おお、もうすぐ記念日!

     

    さて、最後の謎は「赤坂」という地名です。残念ながら、お堂の中や周辺を観察しても「赤坂」という文字はありませんでした。

    日本中に地名として「赤坂」は多くありますが、だいたいの土地の意味が「粘土質の坂道」とか「明るい坂道」という解釈がされています。

    現在の場所としては、確かに、坂道になっている途中です。今でも水路が近くを通っていて、水はけの悪い粘土質の坂だった可能性はあります。現に、このすぐ北側の「大股」エリア(知多半田駅前一帯)は低くて、雨が降ると水はけが悪く、下駄をはいて通らねばならなかったという記録があります。

    さきほどの『半田の伝説』では「地元の有力者たちと相談し、赤坂というところに十坪ほどの土地を求めて、ここにこの地蔵さんをお祭り申しあげた。」とあります。

    先の地蔵資料の文献には、「中町2の83 赤坂阿弥陀仏 立派な堂内に安置。」と書いてありました。

    明治以前は今のように●●町1丁目2番地3というように数字を使って場所を特定するシステムがまだなかったので、2つの文献を合わせて考えると、シンプルに阿弥陀如来のお堂があったところが「北新居村 下細口 赤坂」という特定するような場所だったんでしょう。

     

    辻地蔵か?と思うような場所にあったのに、阿弥陀如来のお堂だった。道路がいくつか集まるところに阿弥陀如来のお堂を作った北講の人々は、集まりやすいこの場所で集まって、井戸端会議するような場所だったのかもしれません。

     

    今では北新居村も、下細口も、赤坂も残ってはいませんが、この阿弥陀如来のお堂が238年間もの間ここに建っていて、今でも近所の方々の信仰で大事に保護されているということによって、こういった消えてしまった地名を知ることができます。半田市にとって、中町の阿弥陀如来さんは、ものすごい大切な歴史の証人です。

     

     

     

  • 半田から船で運んだのは、酒、酢、●●?!

    半田から船で運んだのは、酒、酢、●●?!

    江戸時代から、半田港、亀崎港が、海運業で栄えてた、ということは何となく知ってる人は多いでしょう。

    今も会社や蔵があるミツカンや国盛(中埜酒造)のイメージもあって、酒や酢が江戸に運ばれてたんだろうな~というのはすぐに頭に浮かびますよね!

     

    でも、運ばれていたのは酒や酢だけではありません。

     

    じゃあ、他に何が運ばれていたのか?

    今ではイメージしにくいので、あまりフューチャーされることがないのですが、

    それは「肥料」です。

     

    「肥料」とは、畑の農作物に使うあの肥料です。

     

    半田・亀崎の海運は、むしろ、全国的に見ると「肥料」が多く扱われていることが特徴でした。

     

     

    肥料は、お金の要らない草木の灰や、コエダメから撒くものと、
    お金を出して買う「金肥(きんぴ)」があります。

    「金肥」は、今だとホームセンターで売ってるような肥料のことで、
    白いつぶつぶの化学肥料とか、鶏ふんなどがあります。

    江戸時代後半から明治時代の金肥の主流は、魚でした。
    とくに、ニシン、イワシです。

     

    ▼イワシから作る“干鰯(ほしか)”

     

    肥料の取引は、「千石船」と呼ばれる和船で海上運搬されていました。
    千石船は、MIM(ミツカンミュージアム)に再現展示してある「弁財船(べざいせん)」のような大きな大きな船です。

     

    半田港・亀崎港が金肥の集散地としてピークだったのが明治20~30年代。

    その頃のモノの流れは、まず

    肥料のモトとなる魚や大豆粕などを、

    東京・兵庫・大阪・千葉・伊豆・静岡・横浜、
    さらには北陸・東北・北海道、
    その後は中国(外国の方の中国です)

    ↓  から引き取ってきて、一旦、

    半田港・亀崎港

    ↓  に集約してから、

    東海地方の農地

    に供給されていました。

    東海地方の中でも、8割が三河、次いで知多半島が供給先となっていたそうです。

     

    この、半田港・亀崎港に仕入れて、供給先へ売る仕事では、
    仲買人がかなり大きな力をもっていたのですが、

    肥料商として有名なお店といえば、
    半田では、「萬三商店」(小栗三郎氏)
    亀崎では、「井口商会」(井口半兵衛氏)です。

     

    肥料商は米穀商を兼ねていることが多かったのと、
    自ら運搬もするための、大きな船もたくさん持っていたので、

    廻船業でも力を持っていました。

     

     

    明治21年に出版された『尾陽商工便覧』に、
    その2つの会社も描かれていますが・・・

     

    ▼井口商会

    “米穀 肥料商 亀崎港 井口半兵衛 出来倉屋”

    大きな蔵のほかに、「亀崎郵便局」「貯金取扱所(銀行)」も描かれています。

    井口半兵衛氏は、亀崎郵便局長になっています。それ以前に、かつて亀崎公園前にあった郵便局を井口邸に移しているので、それがこの絵なのでしょう。

    明治26年には亀崎銀行を設立しているので、この絵の描かれた明治21年頃であると、貯金取扱所と書かれているのはその前身なのかも?

     

     

    ▼萬三商店

    “半田 小栗三郎 本店 その四 浜蔵の図”

    でかい!!

    萬三商店は、倉庫が多いので、図面がその1からその4まで渡って描かれています。

    今でいう半田運河、正式名称でいうと十ケ川(じっかがわ)の船入江が描かれていますが、倉庫のすぐそばまで船を寄せていて、荷物運びがとても便利そうです。

     

     

    ▼半田運河沿い、萬三商店の倉庫があったあたりは、今は公園になっています。

     

     

    現代では津波のイメージで海沿いの建物が敬遠されたり、ネット通販で宅急便が主流の時代では、海運にそこまでなじみがないので、「ふーん」という程度で見てしまいがちですが、

    船が倉庫のすぐそばの岸につけている絵は、今風に解釈すると、

    「名古屋駅を下りたらすぐ目の前にある会社」とか、

    「空輸ヘリが庭先まで来てくれる会社」とかいうレベルの絵です。相当です、相当。

    そう思うと、半田港、亀崎港って、すごい場所なんです。

     

     

    小学生の頃に、社会の授業で、「濃尾平野は農業がさかん」と習った覚えはなんとなくあります。

    たしかに、愛知県はビルの多い名古屋もあったり、トヨタみたいな産業もあって、近代的なイメージもありつつ、農地もかなり身近。

    それは自然地形や気候がいい、というのもあるのですが、

    明治時代に、半田港・亀崎港をキーステーションにして供給された「金肥」があったことで、知多や三河の農業が発展した、と言っても過言ではないようです。

     

    そうだったのか~

    なんか、地味だけどすごい感じ、しません?

     

    ということで、タイトルに●●と書きましたが、

    半田港、亀崎港から船で運ばれていたもの、それは、

    酒、酢、金肥(きんぴ)!でした。

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