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  • “面白の亀崎や”『亀崎の海』

    “面白の亀崎や”『亀崎の海』

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    『亀崎の海』

     

    千鳥友よぶ知多の海 隔てゝ向ふ薄墨の

    三河の山に月出でゝ 寄来る波の白銀の

    ふちとらせゆく洲崎の磯 面白の夕やな

     

    湾の入口左右より いだく師崎いらこ崎

    いすかの嘴のくひちがひ 間に白帆を三つ五つ

    見つゝ歌ひし高根山 面白のけしきやな

     

    松の木の間に紅の 鏡をかくる日は出でて

    海に賑ふいざり舟 漕ぎゆく声も勇ましく

    眺め渡しは県社の杜 面白のあたりやな

     

    海潮院の鐘の音 聞えて明けるあしたより

    汽笛の波にひゞきつゝ 入り来る舟の夕まで

    櫓の音絶えぬ衣が浦 面白の亀崎や

     

    ____________

     

    この歌は、明治時代『鉄道唱歌』など多くの唱歌の作詞者である大和田建樹(おおわだ たけき)さんが詠んだ亀崎の風景です。

     

    漁師町だった亀崎。

     

    夜明けから夕暮れまでの空と海と山、

    船乗りの声、鳥の声と波の音、鐘の音が聞こえてくるようなステキな歌です。

  • 源兵衛さんが船材で作った橋

    源兵衛さんが船材で作った橋

    genbebashi_1JR半田駅から東へ向かい、右手にミツカン本社を、左手に魚太郎 蔵の町店を見ながら進むと、半田運河にかかった大きな橋「源兵衛橋(げんべえばし)」に着きます。

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    江戸時代、

    今の半田市役所があるあたりは、山方新田(やまかたしんでん)と呼ばれる田園地帯。

    ほとんど人家はなく、川を渡るのに橋がなくて、ここを往来する人たちは難儀をしたり、随分大回りして用を達さなければならなかったとか。

     

    そこで、山方新田で船大工をしていた源兵衛さんという人が、船板の廃材を持ってきて、橋を架けてくれたそうです。

     

    粗末な橋ではあったものの、ここを利用する人たちは大いに源兵衛さんの徳をたたえ、誰いうとなく「源兵衛橋」と呼ぶようになったようです。

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    (半田市誌村絵図より)

     

    その後、木造の橋になっていたようですが、時代の変化とともに付け替えられてきました。

     

    明治29年、今の半田市役所の場所に、知多紡績(のちの東洋紡績)が大きな工場をつくり、山方新田に町並ができてくると、源兵衛橋の交通量も増え、大正13年、新しい橋に。

    それは半田市内で最初にできた鉄筋コンクリート橋でした。それほどに重要な橋だったのですね。

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    (半田市誌より)

     

    ところで橋の名前は「げんべえばし」ですが、この橋がある周辺の字名は「源平町」です。

    橋のことを知らないと源平合戦に関係があるのか?!なんて思ってしまいそうですが、源兵衛がなまったんでしょうね!

     

  • “ちょっとビールを半田ァす”半田小唄

    半田小唄

     

    御所の桜の種かり宿に、春を移せし花盛り

    千燈万燈かがやきわたる、半田住吉舟祭

    影もすみ画の龍かと見えて、宮のお池に老(ふ)りし松

    ぼんと搗(つ)き出す万松山の、鐘のひびきに花が散る

    源兵エ橋から川口見れば、船が水かよ川の面(おも)

    積んだ酒船さす棹の歌、粋な酢船の船頭衆

    誰れをまつ虫阿久比の川の、堤づたいの行戻り

    いつも石橋叩いて渡る、堅い分別思案橋

    そっと見返り快を囗に、なびく目元の柳ばし

    丁度ころもが浦晴れ晴れと、秋の沙魚(はぜ)釣る船遊山(ゆさん)

     

    半田名物お酒に麦酒(ビール)、団子饅頭酢に溜り

    お国自慢の味噌ではないが、酒も溜りも酢も半田

    酒も良い筈尾張の半田、米は名うての阿久比米

    米も千石お酒も万駄(まんだ)、鶴と亀洲の繋(もや)ひ舟

    酢船酒船入船出船、どこが水やら源兵衛ばし

    最中落雁雁宿だんご、半田饅頭お茶の友

    下戸ぢゃ下戸ぢゃとおっしゃいますけれど、一寸麦酒(ビール)を半田ァす

    知多の醤油で蟹(かざみ)を下物(さかな)、したじは好きなり御意はよし

    知多の木綿や半田の綿糸、これもお国の富の本

    ぬしも豆粕私も無事で、こんな可愛い粉もござる

     

    ____________

     

    大正から昭和初期にかけて、全国的に、歌って踊れるご当地ソング「新民謡」が自治体や企業の依頼を受けて制作されるブームがありました。

     

    半田市内でも、北東部の亀崎地区では『亀崎小唄』、JR半田駅周辺の半田地区ではこの『半田小唄』が伝わっています。

     

    『亀崎小唄』は最近地域の方々によって復刻され、夏祭りで耳にする機会が出てきましたが、ぜひ『半田小唄』も聴いてみたいものです。

     

    いずれも歓楽街のあったところですから、お座敷で三味線と踊りで盛り上がれそうな歌詞で構成されています。

     

    『半田小唄』には、半田地区の名所や名物が散りばめられていますが、

    “一寸麦酒を半田ァす”(ちょっとビールを半ダース)

    なんて、いかにも赤レンガで作られたカブトビールを連想させるお洒落フレーズですね。

     

    しかしビール半ダースというと瓶6本ですか…

    謙遜なのか本当なのか下戸だと言いつつも半ダース飲んでしまう、お座敷の楽しい雰囲気が伝わってくるようです。

  • 星の形だった大きな池

    星の形だった大きな池

    hoshinaike_6名鉄知多半田駅の西側、雁宿ホールと立体駐車場の間に、コンクリート張りの小さな池があるのを見たことがありますか?

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    「星名池(ほしないけ)」です。

    今や池として見えている部分はとても小さいですが、明治の中ごろまでは、名前のとおり、大きな星形をした立派なため池でした。

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    (半田市誌村絵図より作図)

     

    江戸時代の村絵図に描かれた星名池を、今の地図に描き入れてみました。

    とても大きいです。

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    この地図の左側にある星崎町1丁目・3丁目が、古くから「星崎」と呼ばれてきた地区です。

    いかにも池の形が星のように入り組んで、“崎”がたくさんあったような地名。

     

    かつての大きな池の名残が、今の星名池から100mほど東へ行ったところに残っています。

     

    ローソンのそばの歩道橋の近く、東西に渡る車でよく混む踏切を東へ渡ると、小さな祠に「星名池地蔵」が祭られています。

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    かつては、ここが星の形の一辺で一番出っぱった先で、丁度そこが切り落し囗になっており、よく子供が吸いこまれて幼い命を犠牲にしたとか…。

    二度とそんな哀しいことが起きないようにと地元有志で地蔵尊をお祭りしたそうです。

    大正末期までは、毎年9月に星名池地蔵さんのお祭りがあって、野芝居、見せもの小屋、露店商が星名池の周りにぎっしり集まって賑わっていたそうです。

    確かに、祠をのぞいてみると、大正に寄贈したらしき賽銭箱が見えました。

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    そして、今の星名池からイシハラフードの方へ上がっていく道沿いに今もある水路。

    これは星名池からあふれ出る水が川になったもの。

    かつては、いい天気の日に近所の女性達が洗濯をしていたそうです。

    「星名池の洗だく川」「親池の洗だく川」と縄張りがあったとか!

     

    ちなみにこの川は、ミツカンミュージアム(MIM)の展示の中にある古地図にも描かれています。

    中埜酢店が醸造のために利用した水路の図面ですが、嘉永四年(1851年)の星名池やそこから流れ出る川が描かれています。

     

    今となっては、あんなに小さくなった星名池。

    その豊富な水が、半田の醸造と結びついていたんですね。

  • 「カモ池」は昔「ツル池」だった

    「カモ池」は昔「ツル池」だった

    kamoike_2半田市北部にある上池は、道を挟んで南側にある七本木池とともに、数年前まで冬になるとたくさんのカモがくることで有名で、「カモ池」と呼ばれてきました。

     

    少なくとも20年前の冬にはパンを投げるとカモが寄ってくる楽しい場所だったことを記憶していますが、ちょっとここ数年はそう呼ぶにはカモの数の寂しさが増してきていますよね。

     

    それでも近隣では、カモ池を連想させる団体名、建物など思い浮かぶ方もいるかと思います。

    近くにある美原郵便局では受け付けたハガキに押される受付印が「カモ池」を描いたものだそうです。

     

    それほどに親しまれてきた「カモ池」ですが、カモの大群が降り立つようになったのは昭和46年頃と言われています。

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    (半田市誌より)

     

     

    それ以前は、上池は「鶴池」と呼ばれていました。

    上池の西側の上池町には、江戸時代は、半田市の木でもあるクロマツが多くはえた林がありました。

    そこに数千羽の鶴が住み着いており、毎朝一斉に舞い上がって、上池に降りてエサを探していたそうです。

    大空に舞う鶴の大群、とても壮観だったでしょうね。

     

    ただ、尾張藩のお殿様は鶴を大切にする方で、ここを禁猟地区にしたために、ますます鶴は増えたんだそうです。

    近くに住む人々は、もしも自分の土地に死んだ鶴でもいようものなら、お咎めがあったそうで、毎朝早起きしては家の周りに鶴がいないかチェックしてはヒヤヒヤしていたとか…。

     

    いつしか鶴がいなくなって、時を経て、上池の愛称は「鶴池」から「カモ池」に移っていったようです。

     

    ところで、「鶴池」と呼ばれていた頃の上池は、どんな池だったんでしょう?

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    (半田市誌村絵図より)

     

    今から175年前の江戸時代、天保12年(1841年)の頃の村絵図を見ると、上池も七本木池も、大きさも形もそこまで今と変わりません。

    最近、七本木池は綺麗な公園ができて、ランニングに励む大人や、大きなすべり台で遊ぶ子どもの姿を見かけます。

    市内では小さくなったり消えた池がたくさんある中で、上池と七本木池は、昔から今もこの地域の人々からとても大切にされてきた風景なんだなと感じます。

     

    再び「カモ池」と呼ばれる姿が見られるようになるのか、気になります。

  • 130歳の赤レンガ橋台

    130歳の赤レンガ橋台

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    ココ、乙川あみやき亭の右折レーン、よく混んでイライラすることもありますよね。

     

    でも信号待ちの間、車の窓から気軽に歴史探訪できる場所なんです。

     

    それは、阿久比川橋台。

    少し西にある半田赤レンガ建物(明治31年竣工)よりも、12年ほど前にできています。

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    補強でコンクリートに固められていますが、レンガ積みの円柱の半分が見えます。

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    今から130年前、1886年(明治19年)3月1日、武豊線は“東海道新幹線幻の中山道ルート”建設のために、武豊港から木材を運ぶ線路としてスタート。

     

    その当初から多くの列車を支えてきたのが、この橋台。

    武豊線関連のレンガ構造物は、この橋台のほかにもたくさんありますが、この橋台は、なかでも半田市内で一番人通りの多いところにある歴史遺産です。

     

    この橋台のできた明治19年というと、谷崎潤一郎、石川啄木、平塚雷鳥と同い年。

     

    と聞くと、「へ〜よくわかんないけどなんか古いんだね〜」という感じですが、

    この橋台のすごさは、ただ古いだけじゃない。

    130年経った今でも使われて、生活風景の中に溶け込んでいることに価値があります。

     

  • 雁宿公園前の側溝フタ

    雁宿公園前の側溝フタ

    雁宿公園の前の遊歩道に、半田らしい側溝のフタがありました。モデルはどこの組の山車なんでしょうね?

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  • 【繁華街“行こか戻ろか”しあん橋】思案橋

    【繁華街“行こか戻ろか”しあん橋】思案橋

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    JR半田駅の東、銀座本町4丁目の交差点に、「思案橋」という橋があります。

     

    遊びすぎた男、恋した女たちが、ここで「行こうか、戻ろうか、どうしようか」と思案をしたところから、この橋の名が名付けられたとか。

     

    このあたりは、明治の終わりから昭和12年頃(半田市ができた年)までは、芸者の置屋が軒をつらねる花街でした。

     

    半田に伝わる『半田小唄』では、

    “いつも石橋叩いて渡る、堅い分別 思案橋”

    と、うたわれています。

    遊ぶには思い切りが必要だったんですね…

     

    ちなみに明治の中頃まで、この思案橋が、成岩(ならわ)と半田の境だったそうです。

     

    今では、半田のど真ん中でひっそり身を潜めている「思案橋」。

    この橋が架かっている新川は、西側は道路がかぶせられて見えませんが、東側はチョロチョロとした細い水路として見えます。

     

  • 【怪物のうなり声がする池】苅谷口池

    【怪物のうなり声がする池】苅谷口池

    kariyaguchiike_2桐ヶ丘にある苅谷口池は、昭和初期、怪物が出るという噂があったそうです。

     

    暗くなると、大きな声が聞こえる…

     

    名古屋や三河からも人が見にくる騒ぎになって、便乗して出店まで出たんだとか。

     

    ヘビ?カッパ?ウシガエル?

    どれも違う声。

    結局わからないまま…

    今ではそんな噂聞きませんが、もしも最近聞いたことがある方はご一報を⁈

     

    ところで

    この池は、今から473年前、戦国時代の天文12年(1543)、三河の刈谷城主の水野氏が、この池のほとりまで攻めてきたことから、“かりや口池”と呼ばれるようになったそうです。

    歴史を感じますね!

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    池のほとりのお地蔵さんは、ミニーちゃんの可愛い前掛けをしてました。

     

  • 【半田にも“三猿” 】「粕江庚申」

    【半田にも“三猿” 】「粕江庚申」

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    今年2016年は、さる年。

     

    「見ざる 聞かざる 言わざる」の三猿は日光東照宮で有名ですが、半田市内にも三猿がいるんです。

     

    それは成岩本町にあります。

    成岩小学校の下の道を、愛昇殿へ北上する大通り沿いで、大きな石塔を見たことはありませんか?

     

    粕江庚申(かすえこうしん)と書かれた石柱のそばにある、小さなお堂の中にまつられている石仏(庚申さま)の台座部分に「見猿 聞か猿 言わ猿」が簡単な形で彫られています。

     

    まつられている庚申(こうしん)さまの正式名称は、

    青面金剛(しょうめんこんごう)。

    とても怖い顔をしていて、疫病や“悪い虫”を追い払ってくれる仏様です。

     

    庚申信仰は、

    中国の道教をもとに、仏教、神道が混ざった日本独自の民間信仰。奈良時代から発展して、現在に至ります。

     

    どんな信仰でしょうか?

     

    私たちの体内には3匹の虫がいて、いつも私たちの言動を見張っているんだそうです。

    2ヶ月に1回、暦で庚申(かのえさる)の夜、

    私たちが寝ている間に、天帝(えんま大王)に3匹の虫が「コイツこんな悪い事してましたぜ」と告げ口しに天に上って行くんだそうです。

     

    その悪事は“えんま帳”に記録されて、悪さレベルが上がるほどその人の寿命が縮まるというのです。

     

    そこで3匹の虫が告げ口をしに行かないように、庚申の夜は酒盛りをしながら寝ずに朝を待ちます。

    最近あまり聞かなくなりましたが、いわゆる「お日待ち」です。

     

    一方の 三猿は、

    孔子の「論語」が元だと言われたり、

    エジプト、アジア、欧米諸国でもことわざや建物で見られる世界共通モチーフです。

     

    “3匹の虫よ、えんま様に告げ口しないでくれ”という庚申信仰と、

    “見猿 聞か猿 言わ猿”は、

    出どころは違えど「さる」というキーワードでつながって馴染みやすくなり、日本各地で“庚申さま+三猿”としてまつられてきたようです。

     

    庚申信仰で有名なのは奈良のならまち庚申堂ですが、

    粕江庚申堂の中には、この地域の庚申信仰グループ(庚申講)で奈良の庚申堂を参った記念写真も飾られていました。

     

    半田市内では庚申さまは9箇所ほどでまつられていて、いくつか同じように三猿を見ることができます。

     

    ちなみに2016年の庚申は、2/8、4/8、6/7、8/6、10/5、12/4。

    最近悪いことした気がする方は、庚申さまをお参りして、

    「どうか見猿聞か猿言わ猿で…」

    とお願いしてみてはいかがでしょうか?

     

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